熊野街道散歩M 紀伊内原〜御坊(海士王子・九品寺) 

 連休前半戦の中日、連れ合いとぽてぽてと散歩、女の性の恐ろしさを暗示する道成寺を始め宮子姫・湯川子安の伝説が残る土地を散策、確かに女は怖い・・・・コース 07/4/29
熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房  熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 を参考に訪問しました。





萩原辺り:かつてこの辺りは萩の花がさいて美しい野原であったそうですね。 道標地蔵: 道の分岐部には道しるべを兼ねた地蔵様が祀られいる。
路傍の花々:道沿いに咲く花々 路傍の花々:道沿いに咲く花々
弁財天古墳への分岐:街道沿いに古墳への案内板があった。この辺りは古墳が多く存在するとの事です。 手押ポンプ:古いタイプの手押しポンプがあった。たまに使用されるらしくパイプが取り付けられてあった。
弁財天古墳説明版:日高町荊木の古墳群の一つだそうです。 弁財天古墳全景:使用される石材から紀ノ川北岸の勢力と関連が深い被葬者が推定されるそうです。
道分け地蔵:富安川上流部への分岐点にある道分け地蔵。 道分け地蔵全景:花が生けられ大事に祀られていました。
吉田家の屋敷林:道分け地蔵から少し入った所に社叢のような森がありました。 屋敷林解説碑:この森は市指定の天然記念物になっています。この時期楠は緑の葉をいっぱいに広げて光を受けていました。
善童子王子神社の看板古道から少し入った所に善童子神社の看板がありました。
よい子神社:善童子の転化でしょうか?よい子神社の看板もありました
善童子王子址:かつては五体王子に次ぐ准五体王子であったらしく大きな規模を誇っていたとの事です。
徳本上人名号石:おなじみの徳本上人名号石です、これも花が沿えられ丁重に祀られていました。 古い道標:名号石の近くに左道成寺と刻む古い道標がありました風雨にさらされ磨滅が進んでいました。
富安辺りの町並:富安川を渡り、愛徳山王子に向かう途中の家並みは風情がありました。
愛徳山王子への入り口:古い民家脇に看板があります、「こんなところに?」と思うような場所です。
愛徳山王子への通路:家と家の間の路地を進みます。
洗濯物が干してあるのを眺めながら?進む。
愛徳山王子への藪道:路地をしばらく進み看板に促されるまま竹やぶの中に入ります。

明るい感じの道ですが一人で進むのは少し怖いかな。
愛徳山王子址:五体王子につぐ王子であったとの事でかつては規模が大きかったそうです。近世末期には荒廃したとの事です。 蛇塚を示す道標:正面に 左?入田の中 きよひめ?やつか 側面に泉州堺 神南辺降光 立之 と刻まれていました。
蛇塚:清姫の入水自殺の跡であり、墓碑であると言われています。
宅地のなかに「ぽつねん」と在って、そぞろ哀れを誘う。
道成寺仁王門:元禄13年(1700)建立の重要文化財平成5年に塗り替えられ朱が美しいです。太古はこの山門の下あたりまで海ではなかったのか?と思われる地形でした。
金堂:承平12年(1357)建立、昭和の解体修理の際金堂下の地面が一度も風雨にさらされていない事が確認されたそうです。
三重塔:宝暦14年(1764)再建
県指定文化財、遠方より微かに霞んで見えます、寺のシンボルですね。
参道:山門(仁王門)を見上げるような参道、これからお参りに行くぞ・みたいな気分を盛り上げてくれます。 槙柏:樹齢600年とされる木がありました。巨木で、岡山の箸たてビバ以来の迫力でした。
石仏:よく見るこの頬杖を付くポーズは何かの決まりごとなのでしょうか?お茶目でかわいいポーズですね。後記・思惟&輪王坐のポーズである事を知りました。
海士王子:御幸記ではクワマ王子の表記がされる、吉田村手鑑によると八幡山の山すそに海士が住み海中より道成寺の観音像を担ぎ上げ 云々・・とある。

いずれにせよ、先の二王子(善童子王子・愛徳山王子)の規模が大きかった事を始め、日高川両岸は古墳の存在が確認されたり・古代朝廷との関連があったり・太古より人が暮らしていて、紀南に於いては、先進地帯であった事は間違いないでしょう。
海士王子址:かつての海士王子は現在の場所よりやや東にあったとされる。前を流れる川は太古、海岸線であった場所ではないかと感じた。

前方の川にはやたらと亀が甲羅干しをしておりました。
宮子姫像:西暦700年頃、九海士の浦という小さな漁村で生まれた髪の美しい宮子姫は髪が美しい故に藤原不比人の養女となり、文武天皇の妃となりました。

太古この辺りに海士の勢力があり天皇の妃とされる程の力があった事へのシンボリックなお話かも知れませんね。
いぼ地蔵:湯川中の北150mのJR重力踏切り近くにいぼとり地蔵がある、由来等は不明ですが磨滅してかなり古い地蔵様のようでした。

ほかに古い一石五輪塔も混じっていてたくさんの花が添えられていて紀州人の細やかさが伺えました。
湯川子安神社:亀山城主、湯川氏は平素この場所に館を築いていた。子安民話の伝承があります。
生石高原の麓からより。
小松原館址:神社の周りにはかつての掘割の址を思わせる水路が残っています。神社を含め裏手に当たる学校の敷地辺りが城館のあとでしょうか?

湯川氏は熊野古道中辺路の道湯川で栄え、日高地方に進出したそうで、道湯川を奥の湯川・日高地方を端の湯川と呼び、隆盛を誇りましたが、戦国期には紀南最大の勢力を誇りましたが、秀吉の全国統一後は、ゲリラ戦を展開し秀吉を悩ませたようですが、大和郡山城に参候して毒殺され、終焉を迎えたました。
市指定天然記念物:湯川子安神社の境内には樹齢1000年とも言われる楠がありました、市の天然記念物に指定されています。 石敢當:沖縄地方などでよく見かけられる魔よけの石、アジアに広く分布していて道の曲がり角や、突き当り。T字路などに置かれる事が多いとされる。魔物が石に当り駆除されると云う。
古い洋館:古い洋館日本放送協会ラジオ申込取次所の看板が?ラジオを聞く事はかつては申請が必要で,申請せずにラジオを聴くと処罰されたようです。この場所の斜め前に現在の郵便局が在りましたので、この場所はかつて郵便局であったかも知れませんね。
「真空管ラジオ修復記」より。
法林寺:湯川氏ゆかりの浄土宗寺院、湯川一族の菩提を弔うために湯川氏11代当主 直光 が建てた日高地方で最古の浄土宗寺院との事だそうです。境内には古い宝篋印塔がありました。
小松原の家並:小松原は熊野街道の宿駅として栄えましたので、古い町屋もたくさん残っていました。通りかかったこの町屋は売りに出されておりました。 古い外灯:かなり古い外灯があります、今では、この手の電球も電線もみかける事はありませんね。
九品寺:かつては広大なものであったといわれており、一時は末寺56ヶ寺を有する日高地方の本寺であったとの事、近年本堂が新築され木の香りが残っています。 松平頼雄(よりかつ)大名塚非業の最後を遂げた頼雄を弔う五輪等か?説明等が無く人が居ないのでたずねる事も出来ませんでしたが、おそらくこの無銘の五輪塔が松平頼雄を弔う墓石であろうと思われました。
江戸期のパワーゲームの犠牲者でしょうか?南無・・
御坊駅:駅前は広く構内にて立ち食いうどんも食せる、構内の0番腺から紀州鉄道が出る。0番腺て銀河鉄道999みたいやん。 スーパー黒潮:この日は連れ合いも居て疲れましたのでスーパー黒潮にて帰阪、天王寺まで90分は早かった・・御坊まで在来線乗り継ぎなら2時間30分はかかるので、さすが特急、価格も高い分だけ時間も早い。



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