熊野街道散歩K 紀伊宮原〜津兼王子

散歩も和歌山へ入り5回目今回は有田川を経て糸我峠を越え、醤油発祥の地 湯浅をへて津兼王子に到る。ミカン山の中をのんびり散歩して醤油発祥の地 湯浅 へ入る、湯浅の町は古い町屋が残る魅力的な町です。  コース 07/2/10

和歌山県に入ってからは、 和歌山県街道マップ〜高野めぐり・熊野古道〜  が必見です。
熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房  熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 を参考に訪問しました。





紀伊宮原駅をスタートして 宮原の渡し があつた辺りに架かる宮原橋を渡る。

中将姫伝説の寺、「得生寺」 ・日本最古の稲荷社「糸我稲荷神社」を過ぎ、古道は糸我峠へ向かう。

くまの古道歴史民族資料館には藤原定家の御幸随行の様子がわかり易くイラスト化されている、定家は40歳の時に御幸に随行したようで、当時の40歳は今の感覚では何歳位になるのか?随分トウが経った年齢であったのではないかと思います。

体力のピークをとうに過ぎた年齢での随行は随分こたえた様で、あちらこちらで 愚痴っているのが現在のサラリーマン生活とラップして定家に親近感が湧きました。

御幸8日目に信達王子から藤代王子34.9km移動の翌日には藤代の坂を越え、拝の峠を越えて湯浅の町に宿泊しています。平安貴族で足弱なイメージでしたが、現代人より余程しっかり歩きなさる・・.

定家は19歳から56年間に渡り日記をつけていた「名月記として2000年国宝指定」その日記の中にはかに星雲の爆発を記録された部分もあり、いろいろな意味で有名な人です、現世ではおもうように栄達出来なかったけれども没後800年近く経って、新古今和歌集選者・後鳥羽院熊野御幸記・かに星雲爆発記録者、として有名になった事を草葉の陰でどのように思っているのでしょうか?

糸我稲荷をでた古道は峠を目指して蜜柑山を分け入る。

札場地蔵:大雨で船が出せない時には、ここに「本日川止め」の札が揚げられたそうだ。 有田川から糸我峠を望む。
得生寺にはびんずる様が座っておられましたので、近頃右膝が痛い私はさすってきました。 定家のスケジュール表:くまの街道民族資料館には当時の一日のスケジュールをわかり易く掲示されていた。
神社前の道標:白河法皇の句碑と文久四年に造られた、熊野街道の道標がある。江戸期には馬場であったそうだ。 糸我稲荷の門には道しるべがあるここから糸我峠へむけて蜜柑畑を進む。
糸我王子址

糸我王子は「御幸記」に「イトカハ王子」とあり後世「糸我王子」と称されたが現在は糸我稲荷神社に合祀されている。
糸我王子を過ぎしばらくすると古い道標が現れる。
ここら辺りは蜜柑山オンリーですが、稲作の棚田に負けない位の石垣が巡らされている
糸我峠付近から紀伊宮原を望む:休息所手前から振り返ると糸我から宮原方面の景色が広がる。 峠途中の休息所:休息所を出ると地道に変わるすぐに峠へ到る。
糸我峠
この峠は眺望もよく、湯浅の町を一望できる絶景。かつて峠には茶屋があり、古の歌人は歌を詠んでいる、
    「足代過ぎて絲鹿の山の桜花
        散らずあらなむ還り来るまで」
                     
つてはこの場所に在った茶屋では夏場に保存した蜜柑を出して人気を博したそうです。
夜泣松跡:糸我峠から、吉川へ少し下った所に「伝説夜泣松」の石碑がある。 昔、「夜泣松」という大木があったが、枯れしまい今は碑が残っているだけです。昔、平清盛の連れていた子が夜泣くので、そこにあった松の木をたたいたところ、泣きやんだ。そこで、その松を「夜泣松」と称したとの事。

行者石:熊野詣で盛んな頃、この石の上に立ち禊をしたと伝えられた石である。
逆川改修工事の際河川より出されこの地移されたとの事。
逆川王子

この王子は『熊野道之間之愚記』に「水逆流、此名云々」とある。この付近の川は西流するのにこの川は東に流れているのでこの名がついたとされている。

かつての王子社の姿を残すとされる。
玉砂利の向こうに社が設えてある。
逆川巡礼橋:この川は禊や祓いを行った場所では無いか?と推察されるとの事。 腰掛岩碑:後白河法皇が熊野参詣のおり、腰を 掛けたという石がかつて畑の中にあったが戦後開墾のため砕かれて今はその姿をとどめていない。道際に二代目の?それらしい岩がある。
弘法井戸:途中の途中に、弘法大師の謂れがある「弘法井戸」があった。
方津戸峠:方津戸峠を越えると湯浅市街にでる。
方津戸峠の切通し付近には小さな祠があり、コンクリート製の五輪等の様な灯篭とその下に古い五輪等の一部が残っていた。
そこから湯浅の町が一望できる。
湯浅の町
湯浅は、平安時代より熊野街道の宿場町として栄え、海上交通の集積地でもあった。
また、醤油の発祥の地としても知られているこの町には貴重な建物等が残されている。
三階建ての旅籠屋でしょうか?街道沿いにありました。
少し脇に入ると狭い路地が入り組んでいます。
ラビリンスですね。
道町の立石道標
湯浅町内の道町に立石(たていし)がある。
これは、天保9(1838)年に建てられたといわれ、大型の道標である。
このような大きな石造物を奉納できるあたりは、湯浅が重要な道筋で富の集積地だったことを伺わせる。
道標の指が北を指す、 薬研彫の力強い道標です。
道標の云われを記す高札。
画像をクリックしてもらうと拡大します。
深専寺
深專寺(しんせんじ)は行基の開基であったとの事、現在の本堂は、寛文3年(1663)年再興したものであるそうです。

熊野行幸のとき法皇や上皇の宿泊地になったという。
「大地震津波心得の記」の石碑やホルトの大木もある、石碑・ホルトの木・本堂が県指定文化財になっている。

地位の高くなかった定家はここには泊まれず、湯浅の町でうっかり穢れに遭い、潮垢離 をして風邪を引いたそうです。
ホルトの木は境内の隅っこにありました。
平賀源内がオリーブの木と間違ったとの説もあるようです。
大地震津波心得の碑
嘉永7年11月4日午前十時、突如に発生した安政東海地震安政東海地震(M8.4)に続き、その翌日には安政南海地震(M8.4)が連続して発生した。
湯浅村や隣町の広村も大きな津波に襲われ大変な被害を受けた。
深専寺前にはこの碑文を現代語訳したパンフレットが無料配布されたいる、内容を読んでみると子孫に対しての深い愛情を感じる。

詳細は防災システム研究所記事へ
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道標の地蔵勝楽寺へ到る道標には首を傾げて聞き入るようなしぐさをした地蔵が刻まれている。祓戸王子参道の観音様も首を傾げていたが何か関連があるのでしょうか?。 紀文碑:紀伊国屋文左衛門は紀州湯浅の出身である。一代で巨万の富を築き一代で使い切った豪胆さが 紀州の仁 らしくていいですね。

その威徳を偲ぶ碑が勝楽寺の本堂前にある。
久米崎王子址

久米崎王子は、そんな湯浅の町を抜け、国道42号線にで、紀文茶屋バス停横の勝楽寺を過ぎ少しである。
金山寺味噌販売店の前の国道を渡り、せまい坂道を上ると左側に久米崎王子跡を示す碑がある。


定家は雨が降っていたのでこの王子は遥拝で済ませたようです。

定家の時代には古道は現在とは違ったルートであったのでしょうか?。
旧道への分岐点:国道との分岐点には古い五輪等やら地蔵様が祀られていた。 広川沿いの古道:道は広川に沿って進む。のんびりした風景が広がる。
柳瀬辺り:古道沿いに紅梅が美しい。 殿井辺り:井路に流れる水が美しい道。
井関王子址を示す掲示板:古道が広川に差し掛かる辺りに古道のルートなどの説明版が掲示されてあった、謎の多い井関王子址の簡単な地図が添えられいる。 このミカン畑の東方にある整備工場辺りが井関王子址らしいとされる。
津兼王子址
定家は、御幸の祭、風邪を引いたまま雨の中を発ち久米崎王子を遙拝し、ここ井関王子についたとき、ようやく雨がやみ夜が明けたと記す、随分疲れた事だろう御幸記では井関王子となっている。

広川町の解説によると、(古くは津兼王子があり、後に津兼王子の遥拝所が井関王子になった)とされる。

川沿いの王子は川道の変遷で移動を余儀なくされていたのでしょう。

40才を過ぎた定家には、風邪をひいている事だし、此処までくるのにもさぞかし疲れただろう、この後の鹿ヶ瀬峠越しを思うと、泣き言の一つや二つも言いたくなった事でしょう。
井関稲荷神社:広川IC脇に在ります、高速を走る車を眺めながら弁当を喫しました。
湯浅駅:今回は湯浅駅まで戻って帰阪しました。
※ 今回は7時28分に紀伊宮原に到着し時間があったので、湯浅から津兼王子まで進みました、湯浅から津兼王子への往復は約7km程ありけっこう時間がかかった上に、復路にバスがあるのですが平日のみ運行で一日数便しかないようです。

ここはやはりガイドブックに従って紀伊宮原〜湯浅間を走破した後に、見所の多い湯浅町内を散策した方が面白かったかな?と感じました。
下に湯浅の町並み記を書き込みました。


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湯浅の町並み

平安時代のはじめの仁寿元年(851年)、唐の僧であった湛誉(たんよ)によって、加工味噌が日本に持ち込まれた。
そして、建長6年(1254年)になって、金山寺味噌の醸造法が、紀州由良の興国寺の高僧覚心(法燈国師/1207〜1298)によって伝えられたという。

味噌を作っているうちに、液体が溜まってくる事に気が付きました、これを加工し製品化したものが醤油の始まりであると伝わる、アジア各地では魚醤(ニョクマム・ナンプラ−)の文化圏があるので植物性蛋白を使用して魚醤作りの手法を応用したものであろうか?。

醤油の商品化が安定された後、湯浅の港から出荷されてゆく数は増加の一途をたどった、江戸時代には、江戸幕府の開幕に伴う人口増加に対応すべく、ここ湯浅の地から水利の便のいい銚子に醤油醸造業者が進出した。(銚子は温暖で麹を利用しての醤油作りに適していた事と、、利根川の水運を利用できる点で地の利が良かったのだろう。※私見では利根川の伏流水の利用が大きな理由では無かったか?と感じる

紀州藩の庇護の下 湯浅の醤油業は発展し、富の集積があった、その帰結として優雅な町屋が建ち、戦災を免れた現在にその優美な姿を見せてくれている。
07/2/10


薬屋:屋号は 樹定薬局 現役で稼業されていました。 薬屋のれん:樹定薬局の店先にて。
薬や看板:樹定薬局の店先にて。 町屋:髷を結った町人が出できそうですね。
古い看板:砂糖商の看板。 町屋:何か由緒ありそうな町屋でした。
醤油屋看板:これも古い看板。 町屋:虫籠窓・黒漆喰塗の町屋・美しい。
味噌屋:作成年代は異なるが町屋とマッチする赤ポスト。 蔵通り:角長辺りの蔵屋敷。
角長:昔ながらの製造法にこだわる老舗。 甚風呂案内版:大正時代の銭湯との事。
湯浅の路地:甚風呂へ到る路地狭くて懐かしい。 甚風呂:現在は営業されていません。残念・・
紀文丸像:紀文の船出をモニュメントとされています。 中波止:この波止場の石垣は平安時代に組まれた物で貴重な遺構です。紀文も波止場から蜜柑舟を出航させたとの事。
分平の象:紀文は幼名を文平と云ったとの事、文平のブロンズ像があった。あれが紀州のミカン舟てヵー。 ディープな銭湯:(栄湯)布袋湯・湯浅町のページとの事、銭湯マニアの私は是非とも入浴したいなぁー。しかしこの銭湯ただものでなぃっしょー。・・・個人的には 岡山の富士の湯 以来のディープ度ですね。詳しくは銭湯Hopperさんのページへ。


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