熊野街道散歩J 海南〜紀伊宮原

散歩も和歌山へ入り4回目今回は高低差のある藤白峠、拝の峠を越える事になる。熊野へ参らむと 思えども 徒歩より参らば 道遠し すぐれて山きびし下線筆者)・・・・熊野古道のガイドブックによく記載されている「梁塵秘抄」の一節ですが、この歌の意味が体にこたえた散歩でした、急な上り坂に心臓は ばくばく きつい下り坂に足は わなわな 日ごろの運動不足が骨身にしみる結果となりました。 07/1/20  ルート

和歌山県に入ってからは、 和歌山県街道マップ〜高野めぐり・熊野古道〜  が必見です。
熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房  熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 を参考に訪問しました。





今回は町並みを早足にて歩いて、藤白の坂を目指します。
海南の町並みも趣のある家並みが残っていて歩いていて飽きることがありませんでした。
海南駅 鳥居辺り
軒先に熊野古道の提灯。 有馬皇子の墓。
藤白坂
舗装路から離れ土道に至る、本日1回目の胸突き八丁の始まり。
丁石地蔵:藤白坂には江戸時代になって一丁ごと(109m)に地蔵を祀った。昭和50年代に現存する物に新しい地蔵を寄進して再現されたとの事。
海南の町を仰ぐ:道は階段状がつづくきつい登りになる、振り返ると海南の町が小さく見える。ここいら辺りから心拍数増加。
舗装道路を進むと藤白坂への道が分岐している。
藤白坂の竹林
坂の途中に鬱蒼とした竹林がある、落ち葉を踏みしめながら峠を目指す。

鳥の声と遠くを走る紀勢線の通過音、自分の踏みしめる落ち葉を砕く音しか聞こえない。

正に異界に立ち入る道である。
硯石、筆捨松
硯石は筆捨松の故事にちなんで紀州初代藩主 徳川頼宣公 の命により自然石に硯を刻んだとの事、昭和58年の水害でひっくり返っているのを、元に戻したそうであるが、重量約10t在ったとの事、起重機が入るような場所では無いので、大変な作業だったでしょう。
筆捨松謂:絵師・絵師・巨勢金岡(こせのかな おか)が熊野権現の化身との絵の書きくらべ をして負け、くやしさのあまりもっていた筆を松の根本に捨てたといわれています。
宝篋印塔
造建年代が15世紀前半と推定される石造宝篋印塔、藤白坂を登りきった場所にある。

和歌山県指定の文化財となっている。
御所ノ芝からの展望:藤白の坂を登りきると素晴らしい展望が広がる。
藤代塔下王子:地蔵峰寺内に藤代塔下王子址が有る。現在は橘本神社に合祀されているとの事。
ミカン山を下る:地蔵峰寺を過ぎてミカン畑を延々と下る。
和歌浦・片男波:かなたの片男波、和歌浦が眼下に広がる。
地蔵峰寺:建物と地蔵尊像が国指定の重要文化財指定を受けている。
橘本王子址
阿弥陀寺の境内に王子址が有る。
街道から阿弥陀寺への分岐には大柄な地蔵が座る。
橘王子址高札:明治20年頃まで樹齢300年位の橘の木がこの地にあったとの事。
現在は高札の裏側に新しい橘の木が植えてあった。
橘本土橋址
紀伊の国名所図会には、橋の周りに旅籠や伝馬所などが描かれ賑わっていた。橋のたもとにわかり易い掲示板が設置してある。
橘本の町並 い感じの家並みが残る。
所坂王子(橘本神社)
田道間守を主神として祀っている。
田道間守は常世の国から橘の木を持ち帰りこの地に日本で最初に植えたと伝えられてます。その実が、日本で最初のみかんとなり、ミカンを元に菓子を作ったことから、橘本神社は、みかんとお菓子の神様として、全国のみかん・菓子業者から崇められています。
毎年四月三日には、全国銘菓奉献祭を行う、奉献祭の板碑には全国区の菓子メーカーが名を刻んでいます。
所坂王子址:掲示板がありその横に、桜の木が植わっていたので春は綺麗でしょう。
一壷王子(山路王子神社)

青石の石垣が美しい神社、かつての王子社の原型を留めるとの事。
泣き相撲土俵:泣き相撲で有名、赤ん坊が泣きながら土俵に上がる様子がTVの秋の風物詩なんかで紹介されます。
沓掛から拝の峠へ
沓掛の集落を過ぎた辺りから本日二回目の胸突き八丁の坂が始まる、ミカン畑の中を這い上がる、冬だと云うのにシャツは汗でぬれる。
沓掛児童会館:
沓掛松、弘法井戸、爪書地蔵。の云われを記した高札がある。
拝の峠
蕪坂を登りきった辺を「拝の峠」といい茶屋が在ったとの事。
付近の石積:峠にはかつて茶屋があって旅人をもてなしていた、この石垣はその址でしょうか?
徳本上人名号石:峠の最高地点辺りに在る。
拝の峠からの展望:下津港を望む。
蕪坂塔下王子
蕪坂は、沓掛から宮原町道への坂で、熊野参詣道のうちでも古くから陸路交通の要路であった。

太刀ノ宮古道沿いにある小社、大坂の陣にまつわる伝説がある。紀州は大坂の陣の際、一揆の炎が燃え上がりましたが、浅野家に一気に鎮圧されたので、云うに云われぬ何とかでしょうか?高札
猿田彦神を祀る。道中安全祈願をしました。
書き地蔵:自然石に阿弥陀と地蔵とが線刻されている。
お堂の横に解りやすい写真が掲示されている。くまの古道歴史民族史料館にも詳細な写真が置いて在った。
爪書き地蔵辺りからの有田川:かつては暴れ川で名を馳せていた、昭和28年に大水害を記録する。
山口王子址
山口王子は、蕪坂を宮原へ向かっての下り坂の麓にある」と紀伊続風土記に書かれており、蕪坂を下って宮原町道の入口付近にあたる。
高札:周囲が376間、当時は旅人相手の茶店が3軒あったと記述されている、明治40年に宮原神社に合祀されたとの事。
神社址:ぽつねんと手水鉢と蘇鉄の木があった。
伏原の墓
かつての熊野巡礼者は行き倒れになっても弔い代金を着物の襟に縫い付けていた、残念にも行き倒れになった巡礼者はこうして菩提を弔われている。
伏原の墓地蔵:伏原の墓には地蔵を始め、五輪塔、板碑、等が集められている。どれも古く角が磨滅している。高札によると丹波国や袁江国の人の墓もあるとの事。
宮原町道辺り:この辺りは水害から免れたのでしょうか?古い家並みが残っていました。
宮原の渡し場址
有田川はかつて暴れ川で名を馳せていました、古の巡礼者も増水で足止めをくらった事でしょう。宮原の渡し場跡の近くには昭和28年の大水害で亡くなられた人達の慰霊塔がありました。
有田川:有田川の語源は荒れた川が転じて足代(あて)→安諦川(あてがわ)→有田川になったとの事。
有田川の水鳥:れると手が付けられない川も冬の小雨時はのんびり流れていました。
得生寺
中将姫を紀伊国有田郡雲雀山で殺害しようとした武士「伊藤春時」が、姫の徳に打たれ殺害することができず、名を「得生」と改め姫をお守りすることとなった、「得生寺」の寺名のおこりとの事。
このお寺には沢山いい事が書いてありました。沢山の人生訓が書かれています。楽なことを幸福と思っていては人生の深い喜びは味わえない。とか書いてありました、座右の銘にしようかな?
一里塚址:この一里塚は、江戸時代初め紀州藩が築いたもの元は東西に在ったが、現在は西側だけ残っている。和歌山城下より五里(約20Km)の位置にある。
糸我稲荷神社
日本最古の稲荷神社といわれるのがこの糸我稲荷神社である(伏見稲荷より60年程古い記録があるそうです。)。訪問時に境内で子供達が遊んでいました、かつて何処でもあったけど今はほんとに少なくなった鎮守の森でした。
有田市指定天然記念物糸我稲荷神社の楠は有田市指定の天然記念物になっている。樹齢は500年以上とされ街道を往く人々のランドマークになっていたのでしょう。
くまの古道歴史民族史料館
熊野御幸に関する資料が展示されている。
藤原定家像:冷泉家所蔵の肖像画から作成されたとの事、こまった君見たいな表情です。また禊かょーてな。
御幸の際には随分多忙で、休む暇も無いほど走り廻っておられます、宮仕えはつらいな。
紀伊宮原駅:今回はここで電車に乗り帰阪しました


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