熊野街道散歩I伊太祁曽神社〜海南(藤代王子社)


熊野街道散歩も紀州編を迎えはや三回目、古代の謎が残る不可思議空間でした、今回は愚息が同行し すたすた と散策を楽しみました。
和歌山に入ると古道は豊かな農村地帯の中を進みます、たわわになるみかんや野焼きの風景などを眺めながらゆるゆると進みます。      07/1/14  コース

和歌山県に入ってからは、 和歌山県街道マップ〜高野めぐり・熊野古道〜  が必見です。

熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房  熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 を参考に訪問しました。






※この区間は車に注意して歩きましょう。
伊太祁曽神社・イチゴ電車、辺り
和歌山の貴志川沿いを走る和歌山電鐵、貴志川は和歌山の飛鳥と称されるくらい遺跡の多い地区だそうです。
会社名より貴志川線と言ったほうが通りが良いくらいの鉄道ですが、新年(2007)より無人駅の貴志駅にネコの駅長「たま」が誕生しました。

乗ってみるとこの路線沿いは、「たま」もさることながら、
古代の謎が残る不可思議空間でした。

訪問日も幸運にもイチゴ電車でした。 今回は伊太祁曽駅からスタートします。
1/14日は卯杖祭(粥占神事)で重要な神事。 樹齢千年の神木は、昔の落雷で枯れてしまったそうです。。
伊太祁曽神社参道

伊太祁曽神社は太古よりつづく古い神社であるようで、かつては日前宮が鎮座する場所にお祀りされていたとの事、木の神として昔から人々の参詣厚く、参道にも趣のある家並みや石造物が目に付く。
伊太祁曽神社参道を西に採り熊野古道と交差する辺りに六地蔵がある。





熊野街道は時代が下るに連れて、伊太祁曽神社のある山東地区から海沿いのルートへと変遷して行ったようです。
この神様はどっしりしています。独特の雰囲気で僕は好きな神社です、強い相撲取に対面したような緊張感が漂う神さんです。 参道には古い民家が残る
参道には石灯籠が奉納されています。 道の辻には地蔵が在り、綺麗な花が添えられています。
奈久智王子

この王子社も場所については諸説ある。
なくちとの音や字はいろいろとがある様です。
太古は和歌山辺りは「渚」が転じて名草」と呼ばれていたようです、その入り口に当たるのがこの辺りなので「名口→奈久智」 になったのではないかとの説がある。
名草」(和歌山)は中世には「雑賀」と呼ばれ雑賀孫市の活躍する場となる、秀吉が雑賀衆を平定した後、現在の和歌山城辺りの城山を和歌浦に対比して「若山、又は岡山」と呼んだ事が地名としての和歌山の始まりとの事。
王子址は高札の裏側20m程中に入った所、ヤブコギします。

奈久地王子社跡高札


王子址には懐かしい看板の数々が・・
武内神社辺り

伝説の長寿チャンプ武内宿彌(タケノウチノスクネ)の生誕地とされ産湯の井戸が残る。

この井戸は紀州徳川家では幼君の産湯に使用していたとの事で享保年間に玉垣を巡らせ みだりに汲む事を藩命で厳禁したとの事。

武内宿彌は、九州 佐賀 にも生誕地があるとされる。

たけのうちたんじゃうの井戸とある。井戸の廻りには注連縄が巻かれている。 武内神社南1k程の竹薮に小祠があり、紀伊国名所図会には此方が奈久智王子の社地であったとされる。
四つ石地蔵かつてこの地に在った千光寺の礎石のある場所にある地蔵さん。 礎石千光寺の礎石とされる。
武内神社

且来辺りの町並。
松坂王子址

海南市最初の王子址、早い時代に且来八幡に合祀されたとの事。今では地蔵さんを祀る。






くも池・汐見峠

古道は土蜘蛛退治伝説が残るくも池を通る、日本書紀は、神武東征の際に名草戸畔を誅したと記す、その場所がくも池辺りとされる。
名草戸畔とは太古、名草辺りを治めていた首長でありシャーマン(巫女)で有ったとの説があります。

日本書紀の記述では「誅」した、との事ですが、五体をバラバラにされた様で、正に「屠られた」と云えそうである。

かつて紀北には征服王朝にとって強力に対向しうる勢力が存在していて、名草を軍事
力により統治下に置いた事が想像できます。




くも池
和歌山駅から望む名草山かつてこの辺りが名草戸畔の本願地であったのか?
堤下の石畳かつて在った石畳を道路整備の祭に移動したとの事
徳本上人名号石くも池の畔には名号石が佇む
像を膨らませるとすれば、かつてこの辺りは紀ノ川の恵みを受け物なりが豊かで、様々な職能に秀でた集団が居住していたのでしょう、それらの首長の中の一人に名草戸畔と呼ばれる人物がいたようです、戸畔は女性でシャーマンで在ったとの説もあるようです。
やがて西方より猛々しい武装集団(神武東征・後の大和政権)がやってきて、紀ノ川河口域を統治下に置く過程において名草戸畔が邪魔になったか、名草戸畔の力が恐ろしかったのでしょうね、自分達の影響力を磐石とする為に戸畔を誅(殺)したのでしょう。 
 

草戸畔の率いる軍勢が神武東征の軍勢と戦い討ち取られた土蜘蛛退治伝説から、この灌漑用ため池を「くも池」と称するようになったとの事、また誅された戸畔の亡骸は三つに分断され・・頭は宇賀部神社、腹部は杉尾神社、足は千草神社、へ祀られたと「紀州の伝説」は記す。

※何の罪が在ったのか?負ければ賊軍ですから・・勝ち組に乗っかった人達はうしろめたかったでしょうに。
私は、戦国期に和歌山(雑賀)で活躍する鈴木孫市と名草戸畔の印象が重なってきます。孫市は当時日本を統一しつつあった 織田信長やその遺産を受け継いだ豊臣秀吉に逆らい滅ぼされました、名草戸畔もやがて大王(伝説ですが)となる神武天皇に楯突いて誅されました。どちらの人物にも権力者へ媚びない精神性を感じます。
空想の翼を確証のないまま広げるとするならば、権力者へ媚びない精神性が紀州方言の特徴となる敬語に値する言葉が少ない(あるいは存在しない)事、の源泉であったならば面白いですね。

の辺りもかつては薄気味悪い場所であり徳本上人名号石がある、徳本上人は紀州日高の出自でその言動に反感をもつ権力者も多かったとの事、この地に奉ぜられた名号石に名草戸畔への鎮魂の意味もあると空想するのは異端であろうか?徳本上人名号石は何も語らない。

参照:角川書店「日本の伝説39 紀州の伝説:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 紀州弁


汐見峠かつては工場地帯の場所が海で在ったし、道の高さも現在より高かったろうから、いい眺めが楽しめたのでしょう。 呼び上げ地蔵安政の地震のさい、村人を救った伝説がある。
現代人は先人の教訓を生かせるか?
も池を過ぎると汐見峠へいたる、ここで紀州の海を始めて見る 現在は海を見事は出来ないが古の巡礼者は感動したことだろう。
松代王子址
春日神社の参道脇に王子址が残る、今は春日神社に合祀されているとの事。

後記:定家の日記に松代王子に関する内容として、・次に松代王子に参る、盲女の子を懐くがあり・・との記述がある、熊野への道ISBN4-906108-37-7 今、思うとこの時代に盲目で子供連れの参詣が、いかに苦難の道で在ったかを思い・また、今よりはるかに社会が貧しくとも、弱者への労りが在ったかを思う時、弱者をいじめて死地へ追いやる、現在の世がいかにうら寂しい物かを思ってしまう。

春日神社
春日神社は熊野街道と高野街道の分岐点に社地を持つ神社。
方位除けにと、巡礼者が無事を祈願したとの事、神社に吊り下げられている提灯も熊野街道と高野街道の表記が有る、
正月時でもあり提灯に火が入り美しい。 春日神社の社叢は古代からの原生林の面影を残す貴重な森であるとの事。

かつて海南で名産であった 墨・和傘・漆器、等を高野山や大坂方面へ運んだ道の分岐点であったのだろう。



菩提房王子址
住宅地の角にあった、他の王子址に比較して小さいので見落やすい。(長い間に民有地になったのでしょうね)



海南駅から望む 藤白山脈 山脈は 空を切り取って 起立している、古の平安人はここから異なる世界へ入ると感じていたのだろう。
熊野一鳥居址
かつては熊野三山への入り口を示す為に大鳥居があったとの事、今はそれがあった事を示す板碑と海南市鳥居との地名が残るのみ。



祓戸王子址
町の墓所であろう山へ入る、石仏等が整理された道をしばらく進むと王子址が有る。この王子で熊野三山へ向かい穢れを祓うため垢離をとったとの事。

かつては古道沿いの場所に在ったとの説もある、現在の王子址地は霊場兼、墓場になっている山の中に在るので、少し不自然な感じは否めない。
鈴木屋敷
全国の鈴木姓のルーツが、ここ鈴木屋敷と言われています。
熊野御幸が盛んになったころ、熊野の鈴木氏がこの地に移り住み、熊野三山への案内役として熊野信仰の普及につとめ全国に3300ある熊野神社を建立し、熊野信仰をひろめたそうである。

雑賀孫市で有名な雑賀鈴木氏と三河鈴木氏もこの鈴木屋敷(藤白鈴木氏)の別れだとの事。

現在は朽ち果てそうなようすですが、復元・整備計画が推進されているとの事、是非とも復元していただけないかと思う。
藤代王子(藤白神社)
九十九王子の内に特に格式の高い5つの王子社を五体王子と呼ばれた。
藤代王子は京都から下って一番目の五体王子であり格式が高かったようである。

熊野への道ISBN4-906108-37-7の著者 吉田昌生氏 はこの藤白神社の宮司をしておられる。


有馬皇子の墓
有馬皇子は孝徳天皇の皇子だった。斉明天皇4年(658)11月、皇子は謀反の疑いで捕えられた。
牟婁(むろ)の湯で尋問を受けたその帰り道、有馬皇子は藤白坂で絞殺(謀殺)された、中大兄皇子・蘇我赤兄が暗躍した結果謀反人へ貶められた、まだ19歳の若さであったと伝えられている。
藤白神社から200mほど西の藤白坂の登り口に、有馬皇子の墓がある。
現在は道路拡張で無くなったが、かつては古道に沿い椿の大木がありその木の下に数個の無縁仏が並んでいて椿の地蔵さんと呼ばれていた。
土地ではその場所を皇子が殺された場所であると伝わる。


有馬皇子伝説の皇子塚へ

美しい和歌の数々は憤死した皇子への鎮魂でしょう。
参照:角川書店「日本の伝説39 紀州の伝説
聖なる森 熊野古道を歩く ガイド一式  開R西日本コミュニケーション企画
熊野古道散歩も和歌山編になりますとJRを利用する事が多くなりまして、そんなある日に和歌山駅にてパンフレットを見かけました。
資料を取り寄せまして驚きました、詳細なイラストマップが25枚も付いて古道めぐりをする者には大変ありがたい内容です、ぜひ入手しましょう。
案内書

スタンプラリーやフォトコンテストも同時企画されていてそれらの案内が同封されている。
企画内容は、
@ クイズラリー
A フォトコンテスト
B 衣装販売・レンタル、ガイド
C 特典施設ガイド
補足として紀伊浦神駅〜那智駅迂回路の案内、
等などが同封されている。
御心帳

スタンプラリー用のスタンプ帳ですがネーミングがいいですね。
イラストマップ

これ地図群が古道めぐりをする者にとっては大変な値打ち物です。
社団法人 和歌山県観光連盟が発行する 和歌山県街道マップ〜高野めぐり・熊野古道〜   をベースにした、和歌山側紀伊路10枚・中辺路10枚・大辺路5枚、からなる非常に詳細なイラストマップで、コース間距離・高低差・周辺の見所・お土産情報など、が細かく記載されていて、これがあると随分助かります。


一つ前のG 布施屋〜伊太祁曽神社 一つ次のI 海南藤白王子宮原渡し場址



TOP・・・・・・・・CONTENTS
inserted by FC2 system