熊野街道散歩(中辺路@) 紀伊田辺〜滝尻

今年平成19年は、近畿地方の梅雨入りは編年より8日遅れの6月14日ごろと発表がありました、今年はエルニーニョの妹だかなんだかの異常気象とかで、空梅雨が予想されるそうで、6月も20日頃から空模様がぐつついて週末は雨との予想でした。
夏場の街道散歩は難しいだろうし、仕事の都合で23日24日以降8月末迄空きがない現状では、秋まで待とうか?などと考えていた所、22日の天気予報を聞くと23日だけ天気が良くなるとの事、これは天恵であろうから早速に宿と高速バスを予約して口熊野・田辺へと向かった。コース  07/6/23
熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房  熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 JR西日本 聖なる森 熊野古道を歩く を参考に訪問しました。





田辺庶民の熊野詣りが隆盛を極めたのは中世の頃がピークで、近世になってからは伊勢参りに取ってかわられたそうです。
しかし近世に於いても盛んではあったようで、神坂次郎氏著の紀州史散策によると江戸中期の享保元年(1716)6月24日からの6日間で田辺に泊まった参詣人が4776名もあったそうです、皇族・貴族・武家の参詣が衰えた江戸期とは故、なおこれだけの宿泊者数が在った事に「蟻の熊野詣」のすごさが伺えます。
高速バスは19:40難波OCAT発22:20田辺駅前に到着、かつて田辺まで車では4時間近くかかっていた頃を思うと雲泥の差がありますね。
到着日はビールを買ってシャワーを浴びてさっさと眠りました。

夜が明けると、昨日までの大雨が嘘のように晴れ渡る田辺の町。6時に起床して6:30に宿をでた。チープなビジネスホテルなので朝飯はなし
会津橋を渡ります。この日は07/6/23撮影が在るとかで、通行止めの掲示板がありました、橋を渡ると淨恩寺があり、出立王子があります。朝ごはんを食べていないので、歩いて10分ほどの吉野家へ向かう
江戸期の熊野詣では関東からの参詣者がたくさん田辺を訪れたようです、関東からの参詣者は語尾に・・・・ダンベイとか・・・ベイと言ったので、関東べいとか奥州べい、と呼ばれていたそうで宿に着くと餅をついて餅振る舞いを行っていたそうですね。当時は熊野詣に行く事は現在の感覚では世界一周する様な事だったのでしょうか?各地で名物を食べて・名勝を眺めて・あちらこちらを尋ねて、里に帰れば土産を配って、何度も何度も土産話を繰り返して、それは楽しい思い出であった事でしょう。

江戸期には現在の宅配便のシステムに近いものが出来ていて、荷物を預けたり、土産を自宅に送ったりして、旅を存分に楽しんでいたようです。
江戸期の我々の先祖が、現在と同じように生活を楽しんでいた事に感慨を覚えます。
高山寺寺の創建は聖徳太子の草創や弘法大使の修行中とここに留まった事などとも伝わる。
縄文期の貝塚が発掘された事と、和歌山が生んだ巨人「南方熊楠」の墓がある事で有名な寺院。

写真は1806年建造の多宝塔。
貝塚の記念碑:川の河口部でありならが丘になっているので水害の心配もなくて生活するには魅力的な場所であったのでしょうね。

6000年〜7000年前の土器や石器が出土しているそうで、特に尖底押型土器は近畿では最古の縄文土器のものだそうです。
南方熊楠の墓:和歌山の生んだ巨人南方熊楠は晩年田辺に在住しこの地で没した、学者としての評価は彼自身満足していたのでしょうか?熊楠は非常に魅力的な人だったようです、昭和天皇は彼が亡くなった後に、・・雨にけふる 神島を見て紀伊の国生みし南方熊楠を思ふ・・と詠んでいますので彼を愛した一人かも知れませんね。
高山寺の蓮:高山寺に訪れた日、蓮の花が満開でした。
お釈迦様ならここから糸をたらしてカンダダを見守るのでしょうね?。

早朝の境内には講の人たちだろうか?朝早くかtら掃除をしている人たちが数人居ました、おはようございますと皆さん必ず声を掛けてくれますのでとてもいい気分で散歩できました。
南方熊楠:この方についての逸話は数限りなくありますよね、写真を拝見すると目力のある風貌が印象に残ります、明治期に政府が勧める神社合祀に反対運動を起こした人で在ったようです。
実際に田辺周辺の熊楠が関係した社叢を尋ねるとすばらしい森が残っていて、熊楠の感性のすばらしさに感動します。

紀州と言う地域は権力に媚びない人(独立不羈な人物)を数多く出す土地のようですね。
秋津王子址:この王子址は場所の特定が難しいようですね、諸説あるようで比定するのが難しいようです。
実際訪れてみると、右会津川と左会津川の合流部の低地帯でおそらくは遊水地で在った場所でしょうね。個人的にはもう少し山手側にあったのではないか?と感じました。田辺は昔から車の停滞する町ですが、この辺りは迂回路になっているようで、からやたらと通勤車が多くて閉口しました。
紀伊田辺駅から須佐神社辺りまでは車には要注意地帯ですね・・今回は土曜日朝7時台の通勤時間にあたっていたからでしょうか?車内の探し物をしたり、携帯電話をしたり、ずいぶん危ない運転をされているドライバーが目立ちました。
須佐神社:左会津川を遡ると須佐神社の社叢が見えてきます。
見事な森でととろが住んでいそうです、かつての日本人はこの様な森で祭りを行ったのでしょうね?自分たちの手で作る祭りはさぞかし楽しかった事でしょう。
万呂王子址:この王子址も場所の特定が難しいようです。現在掲示板がある場所は人口堤防の上で、王子址の標柱からはずいぶん離れています、(標柱がある場所とて、おそらくはかつての河川敷でしょう?)熊野橋を渡ってくるルートを選ぶと掲示板に気づきますが、左会津川右岸を進むと探すのに大変苦労しました。個人的には水害に遭わない、もう少し山側に在ったのではないか?と感じました、看板整備をお願いしたい王子址です。 三栖廃寺址:白鳳後期に建立された寺院跡で三重の塔を持つ方二町の広がりを持ったと想定される。掲示板より
古代の寺院址を訪れるとほとんどの場合、少し高台になった場所で尚且つ水田からさほどはなれていない所が選定されているように感じます。
個人的空想ながら王子社もこの様な水害にの危険性が少なくて人家から離れていない場所が選ばれたのではないかと?思います。
報恩寺(善光寺):鎌倉時代の如来像がある古刹、古道は寺の脇の古い道標から山手を登っていく。 報恩寺脇の古道:梅林の中を道は高度を増しながら進む、富田の山々が徐々に視界に広がり美しい。
三栖王子址:善光寺南の古道をしばらく進むと三栖王子址出る。
王子址から少し進むと道路に出る、道路脇の梅林の横の農道状の道が古道だそうです、梅林ではちょうど収穫が行われていて青いネットを地面に広げた上に梅の実を落として、それをおばさん達が拾っていました。
おばさん達に舗装路からの分岐点をたずねたら丁寧に教えてくれました、この先は道標が整備されていて迷うようなことはありませんでした。
岡坂越えの古道:三栖王子址から舗装道路を通過して岡坂峠へ向かう古道は地道であり草が茂っていると夏場はつらいかも知れません、横では宅地開発でしょうか?建設重機が山を削とる音が響いていました。
この道は室町期に潮見峠越が開発されて以降はほとんど利用される事がなかったようです、鶯の鳴き声と重機の機械音を聞きながら坂道を登る、昨日の雨の影響があり夏草でズボンはぐしゃぐしゃになる、このルートを使う場合はハイキング程度の装備は必要になるでしょう、トンネル内を進むルートもあるようです。
岡坂峠手前:草の茂る古道を進み峠の手前から三栖の風景が広がります、この辺りは条理制の名残を留める地名が残っているそうで、文字通りのどかな田園風景が望めました
八上王子址:この王子址は桜の美しい場所であったようです、かつて北面の武士で出家した西行は桜の美しさを歌に詠んでいて、その歌碑が境内にあります。 八上王子社の社叢:ここの社叢は市指定天然記念物で見事な杉がありました、樹齢は500年程もあるそうです。大きく枝を伸ばし社の南に広がる田を見下ろすように立っていました。
大賀蓮:昭和26年3月、千葉検見川東京大学グランド地下より発見された3粒の蓮の実は、大賀一郎博士により、約2000年前のものと鑑定され、その年の5月発芽し、翌年7月18日見事に開花したそうです。

その後、全国各地に植樹されここ田辺市にも7−8月頃、美しい花を咲かせるそうです。
田中神社:この神社の社叢も見事な森です、南方熊楠が命名した岡藤が有名だそうです。境内には力石があったり、灯篭があり鎮守の森の懐かしい雰囲気が残ります、この森の中で佇んで耳を澄ませていると、遠い昔に行われたであろう祭りの笛の音・人いきれ・人々の笑い声、なんかが聞こえてきます。
田中神社参道:今は農道ですがかつては参道でもあったであろう道の周りは一面の田んぼがひろがります、田んぼを見るとなぜかほっとしてしまうのは、稲作民族のDNAがそうさせるのでしょうか? 峠の地蔵:深味橋辺りから稲葉根王子にいたる古道は多岐のルートがあったようです、王子谷と言う在所を通るルートやこの峠を通過して富田川(岩田川)の垢離場所の下流にでるルートなどがあるようです。
富田川:峠を越えてしばらく進むと、富田川に出る。かつては岩田川と呼ばれ禊の場所として特に重要な垢離所であったそうです。この川に入り垢離をとるとこの世の罪、穢れを払う事ができると強く信じられていたようです。

中右記の作者、藤原定忠は稲葉根王子から滝尻王子までの間に19回もこの川を渡っています。その定忠さん熊野の神にこんな願いを掛けています、@出世する事・A家が栄える事・B長生きする事・だそうです・・・今の僕と同じやん・・せぃ・・・
川垢離所:かつて川垢離が行われたであろう場所には雁木が築かれてちょっとした親水公園になっている。
国道に面した所には石碑があり、かなり大きな駐車スペースもあり観光バスで古道めぐりをする時に利用するのでしょうか?
稲葉根王子址:富田川に出て最初の王子が稲葉根王子、五躰王子に次ぐ準五躰王子とされていたそうですね、緑濃い木立の中に朱色の垣根が生えて美しい境内を涼しい川風が吹いていました。
古木モニュメント:明治22年紀州は未曾有の大水害に見舞われました、山中の十津川村にいたっては、壊滅的被害を受け、もとの在所での生活をあきらめ北海道へ移住をしました。その大水害の時に富田川上流から流されてきた大木がありました、この大木はやがて川底へ埋没したましたが、    年に再び出てきたものをモニュメントとして設えてました。
山が深く山の恩恵を大きく受けるのと同じく、大水害があった記憶をとどめていました。
この先にコンビニがあり弁当を喫しました、川を眺めながらコンビニ弁当の蓋を開けて飯を食べます判りきった弁当の内容なのですが、やたらと楽しい瞬間です。かつての巡礼者も弁当や昼食の時は楽しかったでしょうね。
だるま寺:(興禅寺)だるま寺にある巨大だるま像は仏蹟地の砂と太平洋戦争の激戦地の土を塗りこめて作られたそうです、寺の裏手には天保年間に開削された農業用類路、清水溝手が通っている。 興禅寺辺りの棚田:その清水溝手で新たに造成された新田は河川段丘上に棚田として広がる。
田植えが終わった訪問日はみどりの稲穂が風に揺らぎ美しい風景が展望できました。
一ノ瀬王子址:この王子址は寛文年間に紀州藩が調査して再建されたそうです、今は大きな楠の木の下に涼しげに新しい社がありました。 一之瀬王子址社:新しい社でまだ微かに木の香がしてきそうです、大きな楠の下で川風に吹かれ涼しそうに佇んでいました。
鮎つり案山子?:一ノ瀬王子址を過ぎて富田川を眺めると、鮎釣りしている人が川中や護岸に居るなー?と思い近寄ると、かかしでした、なんともユニークなかかしで思わず笑ってしまいました。 田辺市鮎川に至る:富田川を遡るとやがて鮎川の在所に出る、鮎川との地名は川が出会う場所(合川)が転じて鮎川になったとの説があります。
富田川に内ノ井川が合流して増水する所であったのでしょうね。
上冨田町から再び田辺市に入ります。
田辺市のマスコットは弁慶君とばかり思っていましたが・・・これは・・・。やぎ?かもしか?
申さん:熊野古道から鉛山口へ分岐する道には古い庚申さんが祀られていました、庚申さんは道標を兼ねていて、今でも丁重に花が添えられています。右 五むら道、左 くまの道、と記されています。 看板1:上富田町から再び田辺市に入ると謎のマスコットがありました、カモシカでしょうか?やぎでしょうか?
鮎川王子址:藤原定家は、建仁元年(1201)十月十三日、この王子社に参拝し、日記には「アイカ王子」と書いています。鮎川王子と記されているのは、承元四年(1210)に熊野に参詣した藤原頼資の日記です。アイカも鮎川も、合川(川が合流するところ)に由来するようです。頼資は修明門院に随行して熊野参詣をしたのですが、鮎川付近で済南に遭遇しました。
四月二十八日、大風雨の中、田辺を出発した一行は、岩田河の一の瀬を渡ったころから、川が増水しはじめ、頼資は鮎川王子に辿り着きますが、六の瀬の付近で溺死者が出たのです。随行した公卿の従者九名が命を落とし、女院も急遽予定を変更して、真奈子(中辺路町真砂)に宿泊しています。江戸時代には王子社といわれ、拝殿を備えていましたが、明治時代に住吉神社に合祀されてました。跡地は、その後、崩壊して原形を留めず、石碑が建つのみです。
掲示板より
住吉神社:南方熊楠さんはここの社叢を切り倒そうとした時に反対運動を起こされて守ったそうです。
県指定の社叢や木々があってうっそうとした森です。
木を眺めるだけで時間を経つのを忘れるような神さびたもりでした。
板橋: 鮎川王子址の掲示板に記載される、修明門院御行記にある水難事故はこのあたりであったのでしょうか? 御所の瀬:御所平の下は御所の瀬と呼ばれているそうです。訪問日は雨の翌日で水量も多かったのですが、通学帰りの高校生達が川原に服を脱ぎ捨ててガンガン泳いでいました。
御所平:永暦元年(1160)後白河上皇は十月二十三日から一ヶ月間に及ぶ旅が熊野御幸の初めであったといわれている。
嘉応元年(1169)に法皇となり建久二年(1191)まで三十回あまり御幸
されている。御所平は熊野詣の道筋にあり後白河法皇の頓宮(仮の御所)があった場所といわれている。下を流れる岩田川(富田川)の瀬を御所の瀬と呼んでいる。

掲示板より
定家歌碑:建仁元年(1201)後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉した歌人、藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」がありますが、十月五日に京都を出発し先陣として各宿所に入りながら、十二日目には「御所は美麗にして川に臨み、深淵あり」という田辺御所に入り、開けて十三日、展明に御所にまいり、早出して秋津王子、丸王子(万呂王子)、ミス王子、さらに八上王子、そして昼には昼養宿所である稲葉根宿所で休息し、石田(いわた)川(富田川)で水垢離をしながら、一ノ瀬王子へ参り再び石田川を渡ってアイカ(鮎川)王子を拝して十三日の宿所である瀧尻王子へと歩を進めています。
鮎川王子から瀧尻王子までの道程を「河の間の紅葉の深浅の影、波に映じ景気殊勝なり、次に崔嵬(さいか)の険阻を昇瀧尻宿所に入る」と記され、夜の歌会では、河辺の様子を     「そめし秋を くれぬとたれか いはた河 またなみこゆる 山姫のそて」と詠んでいます。
 今は河辺まで植林されたり、道路も施設され様子が一変しておりますが、古道を辿って行くうちに所々に往時の面影を残す岩場や道へ施石された箇所が目にできます。
 田辺から瀧尻までの行程を一日で歩くことは大変だったのでしょうが、河を渡ったり王子で休息したり、河辺の景色に見とれながらの旅も又それなりの趣があったことでしょう。散策される一時、往時の面影を思い浮かべながら、楽しんでいただけらと思います。 (大塔村教育委員会)

掲示板より
古道:定家歌碑からの古道は杣道となる、ここからは古道を走破されてGPSデータから精度の高い地図データを公開されている方のページにリンクさせていただきます。 古道2:しばらく行くとそこには、庚申塚や道祖神を祀った石像・石窟・男根などが有りました。この辺りからちょっとしたハイキング道の様相になってきます。
掲示板:川向かいに念仏沼と鮎川温泉があります。後白河法皇が三十余回熊野に御幸されているが、法皇は持病の頭痛で困っていたとき、熊野の神が夢枕に現れ前世のどくろが岩田川(富田川)に沈んでいて、どくろに松の根が入り水の流れに松の根がゆれてそのたびに法皇の頭が痛むのでねんごろにくようするようにとお告げがあったさっそく供を連れて熊野に向かった。淵のところで急に頭が痛くなったので阿闍梨を呼んで祈祷すると淵の底から松の根が刺さったどくろがみつかり頭痛がすっかり治った。 熊野へ詣る人々が淵のところで念仏をとなえると、仏、仏、と淵の底から仏様の名が聞こえてくることから念仏淵の名が付いた。 淵の付近を掘って出たのが鮎川温泉の始まりであり温泉で炊いた黄金めしが有名です。

掲示板より
古道:この辺りは川の淵を古道が通っています、激流の富田川を眺めて歩を進める路であり、全編 琵琶ヶ崖 見たいな デンジャラス ゾーンでした。

雨の日なんかは単独での歩行は注意されたしです。
現在の道標:あまりに閑散とした杣道なので心配になりますが、看板が整備されていて迷う事はありません。蕨尾トンネルの国道下を古道はくぐる この辺りから道は登りとなり、峠の地蔵まで2kほどは大汗をかいた。 峠の地蔵:その杣道を2kばかり登ると突然峠に出会う。峠には古い地蔵がありここが古より街道であった事を標しています。室町期に潮見峠が開発されると御幸の往時ほどには利用される事がなかったようです。
新旧庚申像:峠の地蔵から100m程上流部に庚申像がある、新しい庚申さんと古い庚申さんが並んで祀られています。
訪問日07/6/23は雨中の晴天日でしたが、ここいら辺りで2名程の古道歩きの人に出会いました。
蕨尾:いつの間にか高度を稼いで川との高低差がずいぶん出ていました。冨田川は国土建設省の河川区分では二級河川となっていますが、ここからの眺めでは堂々たる大河です。
徳本上人名号石:おなじみ徳本上人命合石です、草生した中にあり少し寂しげに佇んでいました。 北郡橋:コンクリート製の吊橋が有りました、梁の部分は木製で渡るのに少しの勇気が必要でした。橋の上は涼しい川風が吹いて、いい心地で川面を眺めました。
清姫墓:安珍清姫の物語の第一幕はこの辺りで始まりました、真砂の庄司の娘である 清姫 が旅の僧 安珍 と一夜の契りを結び・・・後は饅頭屋さんの絵巻を見てもらい・・
で、ここ真砂には清姫の墓と伝わる板碑があります、和歌山県の歴史散歩、ISBN 4-634--29300-5 によると室町初期に建てた尼僧の追善供養塔である旨の記述もありますが、いずれにせよこの辺りには清姫ゆかりの遺構が沢山あるようです。ここの隣には清姫茶屋があって食事が出来るので一息入れるのにはいい所です。
音の居:清姫の墓をすぎてしばらく行くと・・山の空間になんかが??材木の運搬かなとか思いましたが、川原に掲示板がありました。対岸にあるモニュメントはスペイン在住の音響彫刻家「増田感」氏製作によるもので1997年4月5日熊野古道怪創作委員会と地元住民らの手により設置されたものです・・・掲示板より
緑濃い山肌に鮮やかな朱色が象徴的なモニュメントでした、いよいよ熊野へ来たな・・と実感が沸いてきました。
道路わきの滝:この日07/6/23は本格的な梅雨の翌日でもあり、流れ込みが増水してあちこちの枯れ沢が滝になっていました、熊野古道館手前のこの沢も どうどうと 富田川 へ流れ込んでいました。 熊野古道館:熊野古道館は、滝尻王子の向かいにある無料の休憩施設で、熊野懐紙や滝尻王子社の所蔵品などの展示やビデオの上映などがされていました。
熊野古道館:で貴重な熊野懐紙や絵巻などが展示されています、歴史資料好きな人にはたまらない資料なんでしょうね。訪問時にはおじさんが熱心にビデオを見ておられました。 滝尻王子社:この王子社は、岩田川(富田川)と石船川が合流する地点にあり、ここから本宮まで厳しい山道となります。天仁二年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月二十三日に水を浴びて禊をした後に、この王子社に参詣していますが、日記に「初めて御山に入る」と書いているように、滝尻からが熊野の霊域とされていたのです。承安四年(1174)に藤原経房がこの王子に参拝したときには、社殿で巫女が里神楽を舞い、建保五年(1217)の後鳥羽上皇と修明門院の参詣の時には、両院が馴子(なれこ)舞いに興じているように、いろいろな芸能が奉納されました。
特に著名なのは、後鳥羽上皇が歌人を随行させたときには、この王子社の宿所で歌会を開いたことです。建仁元年(1201)に藤原定家が随行した際に、めいめいが和歌を書いた「熊野懐紙」は一枚も残っていませんが、前年の正治二年(1200)のものは十一名の分が伝来しており、そのすべてが熊野古道館に複製展示してあります。鎌倉末期以降、熊野の御子神五所を祀る五躰王子の一つとされ、室町時代にもそのように呼ばれていますが、三栖(田辺市)から潮見峠で栗栖川へ通じる道が多く利用されるようになると衰退しました。明治時代には村内の神社を合祀して十郷(とごう)神社と呼ばれましたが、現在は滝尻王子宮十郷神社と称しています。

掲示板より
滝尻王子の案内図:この案内図は上富田町の郷土史家の遺志によりご家族から寄贈されたものだそうです、古道を訪ねる人々にわかりやすい案内図をありがとうございます。 古い宝篋印塔:室町期の宝篋印塔が境内に建っています、宝篋宝篋印塔と並んで立つ一本の笠塔婆は、中辺路から熊野本宮までの1町(約109m)ごとに300本立てられていた町石の後身と思われ、各所に残存しているそうです。
滝尻から地蔵峠(国道371)を望む:滝尻から熊野本宮を望む、ここから熊野本宮まであと60kmです、ガイド本なんかによく書かれている芭蕉の連句に、熊野みたきと泣き給ひけり と詠まれていますが、八軒屋浜からここまで一年と1ヶ月歩いてくるとこの句にあるような気持ちが理解できて来ました。あとどれくらいでたどり着けるかな? 滝尻バス停:滝尻王子からは本格的な山道となるようです。この日の目的はここ滝尻までなのでバスで田辺に向かいます。
八時間程歩いたのでずいぶん疲れました、この日は梅雨の晴れ間で最高気温が28度位でしたが、ずいぶん汗をかいて2.5L程のお茶を飲みました。
これからは山道となる事なので、秋まで休憩ですね。
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