熊野街道散歩(中辺路A) 滝尻〜近露

 いや、今年は猛暑でした、10月に入っても暑くて30℃を越える日が数日ありましたね。
少し涼しくなったので熊野街道散歩を再開しました、今回は中辺路の中でも最も古道の風情が楽しめる 滝尻〜近露 間を歩いてみました。
秋の空にコスモスや彼岸花が彩を添え、鬱蒼とした樹叢の合間から秋の日が古道を照らす・・理想的なシュチュエーションの中、散歩を楽しむ事が出来ました。      07/10/06 コース
熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房  熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 JR西日本 聖なる森 熊野古道を歩く を参考に訪問しました。






天王寺駅:水曜の夜に熊野行きを思い立ち、木曜の夜に準備・金曜に交通手段と宿を手配。
三連休の為に高速バスは満席、贅沢にもオーシャンアローの指定を取りましたが、これもほぼ満席、荷物を一杯積んだ人々が故郷に一息入れに帰るのでしょうか。
夜の田辺:で田辺に付いたのが21:16分、宿に向かうべく駅前商店街を進む。
大勢の酔客と綺麗どころが闊歩していました、後ろ髪を引かれつつスーパーでビールとあてを買ってビジネスへと向かう。
一週間の仕事の疲れがたまっているので、曝睡でした。
朝の田辺夕べの喧騒が嘘のように 朝の田辺は静か でした。
本日10/06は田辺が生んだ悲劇の従者 弁慶 を祭る 弁慶祭り が闘鶏神社で執り行われるそうです、駅には大きな看板と駅前の弁慶像には紅白の垂れ幕を飾って祭りの準備が整っていました。

路地裏には猫の親子でしょうか?こちらを警戒しています。
子猫はまだ視線に気がつかないのでしょう。親はすぐに気がついて視線を投げてよこします。

ああゆうおっさんには気をつけなさい・・とでも云っているのでしょうね。たぶん
駅前には熊野観光で最も有名な牛馬童子像の木製レプリカ像が展示してあります。

和歌山の人々は昔から熊野古道の復活に、相当な時間と労力を惜しまずに投入して現在の観光資源としてきたのでしょう。

そのおかげで私は今現在、世界でも指折り数えるくらい古くから在った参詣道(巡礼道)を歩く事が出来、頭が下がる思いです。


駅前にある6:31始発の竜神バスに乗って滝尻へ向かう。
滝尻へは約30分で到着、朝の光が滝尻王子の木の葉を照らして美しい。なんだかウエルカムとでも言われているような、昔、初めてMAC機を立ち上げた時の興奮とよく似た感動があった。
滝尻から近露へ古道を走破する場合、途中 高原 の集落にある高原霧の里まで、水や食料の確保が出来ません、滝尻王子横にはお土産やさんが数軒在りますが、この日は7:05着のバスで有ったので、店開きの準備中でした。滝尻〜高原・高原〜近露 間は人家がほぼありませんし、尾根伝いの道なので沢水でのどを潤す事も難しく、高低差もあり体力を必要とする区間です。

観光道路より登山路に近いので、装備を含め水や食料は自分で確保する事をお勧めします。。
胎内くぐり:滝尻王子から急勾配の道を10分ほど歩くと、胎内くぐりに出ます。女性が胎内潜りをすれば安産に恵まれるそうですが、中はかなり狭くてザックを背負ったままでは難しいですね。

前回滝尻王子へ訪問したときに若い夫婦が赤ん坊を抱いて王子横の道を下っていて、なんだろう?と思っていたのですが、此処とこのすぐ上の乳岩を訪れていたのでしょう。

滝尻王子からここに至る道は急勾配で、九十九折の階段に近い道を登ると、とめどなく汗が噴出してきます。
乳岩: 藤原秀衡が妻と熊野詣でに訪れた際、妻が産気つき、乳岩で男児を出産した。秀衡は夢枕に現れた熊野権現のお告げにより赤子をこの岩に置き去りにして出発、無事熊野詣でを終えて戻ってくると、赤子は岩肌を流れる白い乳を飲み、狼に守られて無事であったと云う。
 妊婦を連れての参詣は無いでしょうし大事な跡取りをほっらかす事も無いでしょうが?熊野の神の力とその信仰が遠く平泉まで届いていた事の象徴的な挿話でしょうね。紀州民話の旅

※秀衡さん昭和に行った遺骸の調査からAB型である事が証明されましたが、、血液型ゆえに気分がダッチロールしていたんでしょうか?
不寝王子址:中世の記録には、この王子の名は登場しません。王子の名が載せられているのは、江戸時代、元禄年間頃に著された『紀南郷導記』です。
これには、ネジあるいはネズ王子と呼ばれる小社の後があると記され、「不寝」の文字があてられています。
この頃すでに跡地となっていたようで、またネズの語源も明らかではありません。江戸時代後期の『紀伊続風土記』では、「不寝王子廃趾」となっており、今は滝尻王子社に合祀されていると記されています。

「掲示板」
きつい上り:滝尻王子址から剣の山の頂までの30分くらいはかなりの勾配です。
階段のような道を登るかと思えば写真のような木の根を踏んでの山登りで、心臓は早鐘を打つように鼓動を繰り返し、汗はぼたぼたと滴ってきます。
剣ノ山経塚址:ここ剣ノ山の上は、古くから神聖な場所とされていた。ここから熊野本宮にかけて九品の門が建ち、ここには最初の下品下生の門があったといわれている。この経塚跡は、経典を経筒に入れ、それを壺に納めて、地中に埋めたところである。明治末期に盗掘され、ここから出た常滑製の壺だけが、いま古道館に展示されている。滝尻王子の社前にある笠塔婆という石塔も、もとはここにあったようで、経塚の上に立っていたと推測されます。

「掲示板」
尾根道:経塚を過ぎるとご覧のような木漏れ日の差す古道歩きが楽しめます。歩いているとはるか下の村から拡声器による伝言が聞こえてきました。(明日10月7日は朝○時から○○祭りを行います・・・・餅まきも行いますので、皆様ご参加ください)とか聞こえてきました。そうか10月は祭りのシーズンでしたね。
飯盛山展望台:きつい上りが終わると飯盛山の稜線に出ます、道が二手に分かれていて一方は古道、もう一方は展望台へと続きます。展望台からは 果無山脈 と 来栖川の町が望めます。
稜線沿いの古道:展望台からは稜線沿いの道になり、快適に進むと車道と交差する峠に至る。道沿いに彼岸花が綺麗に咲いていました。この道は途中にNHKの電波中継所がありアップダウンがあって結構汗をかきます。岩波新書の「熊野古道」の著者はこの道は古道ではなく、本来の古道は車道に吸収されていると記されていました。
歩いてみての感想は「そうだろうな」と言うところですね。
小山靖憲著「熊野古道」ISBN4-00-430665-5
針地蔵:車道との交差点を過ぎ5分ほどすると「針地蔵」の掲示板が目に付きます。説明版がないので謂れ等については不明です。
ここを過ぎると急な階段があって電波中継所に出ます、かなり急勾配で汗をかきました。
高原の集落:中継所を過ぎて人家のある所に出ました、高原集落です。イーデス・ハンソンさんが住んでいる集落だそうですね。滝尻からここまでの一時間半誰とも会いませんでした、道路沿いのウッドハウスのおじさんが「おはよう」と声をかけてくれた時、チョット嬉しかった。 高原熊野神社:いわゆる熊野九十九王子には入りませんが、春日造りの本殿は室町時代前期の様式を伝え、熊野参詣道中辺路における最古の神社建築として県の指定文化財に指定されているようです。
秋の青い空に桧皮葺の屋根の苔の緑・社殿の丹生色が美しいコントラスト皇太子殿下が熊野古道を歩かれた時にこの神社に参拝されたそうで
記念の写真が飾ってありました。
高原霧の里:で皇太子と秋篠宮様が訪れた時の写真はこちらの高原霧の里に沢山掲示してありました。皇族として711年ぶりに熊野古道に訪れたそうですね、皇太子さまは平成四年五月二十六日に秋篠宮は平成十一年四月二十七日だったそうです。

この休憩所を出て5分ほどの庚申さんがある家を過ぎると、近露までの3〜4時間は人家がありませんので、水・軽食類の補給はお忘れなく。
高原の棚田:休憩所の前には棚田が広がります。はるか遠くに 果無山脈 の山容が見えて最高の景色です。
果無山脈遠望:これも休憩所前からの景色です、山の向こうに山山山 ほんとに 果無 ですね。
高原霧の里のコスモス:休憩所の前があまりに綺麗なもので写真を撮りすぎました。八軒屋からの古道歩きでは最高の景色です。
果無山脈をバックにコスモスが綺麗に咲いていました、畦の所々には彼岸花が咲いて自然に歓迎されているような感動に包まれました。
一里塚跡:石畳の続く急坂を過ぎ、庚申さんに挨拶をしてしばらく進むと一里塚址へ出ます。周りには廃屋があったりして、この辺りがかつての集落の端部であった事が伺えます。近露までの3〜4時間は人家がありませんとの内容の看板がありました。
高原池:一里塚跡を過ぎてしばらく歩くと高原池へ至る、水面に木々が映り込みコントラストが美しい。
沢の水を集めた灌漑用の池でしょうか?この小さな池から水を引いて棚田に落とし込み、稲を育てたのでしょう、先達の努力に脱帽。
大門王子址:この王子は、中世の記録には登場しません。王子の名の由来は、この付近に熊野本宮の大鳥居があったことによるものと考えられます。鳥居の付近に王子社が祀られ、それにちなんで大門王子と呼ばれたのでしょう。天仁二年(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠は、この付近の水飲の仮屋に宿泊しており、建仁元年(1201)に参詣した藤原定家も、この付近の山中で宿泊しています。江戸時代になって、享保七年(1772)の「熊野道中記」に、「社なし」としていこの王子の名が見え、紀州藩は享保八年(1723)に緑泥片岩の石碑を建てました。この王子碑と並んで、鎌倉時代後期のものとされる石造の笠塔婆の塔身が立っています。以前には松の大木がありましたが枯れてしまい、その後朱塗の社殿が建てられて、この王子跡付近の様相は一変しました。

「掲示板」
木もれ日の美しい古道:大門王子址を過ぎるとご覧のような木漏れ日の美しい古道らしい道になります。
滝尻〜近露間で一番いい感じでした。
休憩所:十丈王子の少し手前に林道との交差部」がありました、ここにトイレ付きの休憩所があります。
十丈王子址:重點(十丈)王子この王子社は十丈峠にあり、現在は十丈王子と呼ばれています。
しかし、平安・鎌倉時代の日記には、地名は「重點(じゅうてん)」、王子社名は「重點王子」と書かれています。天仁二年(1109)十月二十四日、藤原宗忠は熊野参詣の途中、雨中に重點を通っています。
重點王子の名は、建仁元年(1201)十月十四日、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記に初見しています。
また、承元四年(1210)に、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参に随行した藤原頼資も、四月三十日に「重點原」で昼食をとり、この王子に参詣しています。江戸時代以降、十丈峠、十丈王子と書かれるようになった理由ははっきりしません。かつてこの峠には、茶店などを営む数軒の民家があり、明治時代には王子神社として祀っていましたが、その後、下川春神社(現、大塔村下川下春日神社)に合祀され、社殿は取り払われました。

「掲示板」
小判地蔵:嘉永7年7月18日にこの地で亡くなった人の供養のため建立された地蔵様です。
豊後国有馬郡の人でおそらく伊勢参拝の後、熊野詣を済ませ紀三井寺に参詣に向かう途中で亡ったのではないかと?掲示板に記されていました。
江戸期の旅はあまり自由でなかったイメージがありますが、参詣に関してはおおらかであり、伊勢・熊野、参詣と京・奈良の見物はセット物であった印象を受けます。
もしかしたら、現在の私たちより手間暇を掛けて旅を楽しみながら、どんな土産話をしようかと?興味津々で見聞し、人々と語らい、濃厚な時間を楽しんだのでは無いでしょうか?

それにしてもこの地蔵さんほんとに小判をくわえているように見えました。
悪四郎屋敷址:十丈の悪四郎は伝説上の有名な人物で、力が強く、頓智にたけていたといわれる。悪四郎の「悪」は、悪者のことではなく、勇猛で強いというような意味である。江戸時代の「熊野道中記」の一書に十丈の項に「昔十丈四郎と云者住みし処なり」とあり、それがここだと見られている。背後の山が悪四郎山(782m)で、ここから約三十分で登ることができる。 

 「掲示板」
悪四郎屋敷址:悪四郎がどのような謂れを持つ人かは解かりませんでした。この辺りの杣人を束ねる親分だったのかもしれませんね。

この辺りはこの区間中最高地で、滝尻からはアップダウンがあるものの、基本的にはここまでは登りの道が続いています。
上田和茶屋址:この山上は上田和と呼び標高六百余。熊野詣の盛んな頃はここに茶屋もあったといわれ大正期にも人家があって林中には三界万霊塔やお墓もある。またこの山上には霜月二十三日の夜になれば、東方はるかに三体の月が現れるとて、ここにあったしめ掛け松のもとに大勢集まり栗や黍の餅を供え、心経をくり月の出を待ったという。
三体月は熊野権現垂迹の伝承の中にも見られる。  

「掲示板」
緑の木もれ日:古道沿いの数少ない広葉樹の林を抜ける、秋の日が葉っぱ越しに、緑の光を落として美しい。
三体月伝説掲示板:今は昔、熊野三山を巡って野中近露の里に姿を見せた一人の修験者が、里人に「わしは十一月二十三日の月の出たとき、高尾山の頂きで神変不可思議の法力を得た。村の衆も毎年その日時に高尾山に登って月の出を拝むがよい。月は三体現れる。」 半信半疑で村の庄屋を中心に若衆連が、陰暦十一月二十三日の夜 高尾山に登って、月の出を待った。やがて、時刻は到来、東伊勢路の方から一体の月が顔をのぞかせ、アッというまにその左右に二体の月が出た。
 三体月の伝説は上多和、悪四郎山槇山にもある。

「掲示板」
三体月鑑賞地脇のきのこ:ちょうどこの辺りでお腹かが空いたので、弁当にしました。

田辺で買ったコンビニのお握りとお茶のシンプル弁当ですが、おいしく頂きました、何か白いものが視界に入ったので近づくと、20cm程もある、大きなきのこが生えていました。
大坂本王子の渓流:大坂峠との林道交差部を過ぎて古道を下ると、沢に出ます、この辺りは植林が進んでいて少しくらい感じの道になっています。

あたりの小沢の流れが集まり、綺麗な水が流れる美しい渓流の始まりです。
大坂本王子址:大坂(逢坂峠)の麓にあるところから、この王子社名が付いたようです。
天仁二年(1109)十月に熊野参詣をした藤原宗忠は、この坂を「大坂」とし、「坂中に蛇型の懸かった大樹がある。昔、女人が化成したと伝えられる」と、日記に書いています。建仁元年(1201)に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、十月十四日にこの王子に参拝しています。また、承元四年(1210)に、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参詣に随行した藤原頼資も、四月三十日にこの王子に参拝しています。江戸時代には「大坂王子」「相坂王子」とも記され、寛政十年(1798)ごろには小社がありました。現在、跡地にある石造の笠塔婆は鎌倉時代後期のもので、滝尻王子(もとは剣ノ山の上)や大門王子などにも同様のものがあります。

「掲示板」
大坂本王子址の笠塔婆:掲示板にも有りましたが、笠塔婆は鎌倉時代後期のものだそうです。
石造物で鎌倉期のものは大変貴重なものでしょう、最近は無住の寺から仏像を盗む輩も多いと聞きます、盗難されないことを祈ります。
渓流沿いの古道:大坂門王子址を過ぎると渓流も大分と川らしくなってきます。

さらさらと水の流れる音を聴きながら古道を進みます。
道の駅:道の駅 熊野古道中辺路 が国道沿いにありました。
三連休の初日でもあり大勢の人で賑わっていました。

ここに車を留めて牛馬童子像までの古道を歩いて楽しむ人が多いようです、といってもやはりハイキング道に変りはありません、この路をハイヒールで歩いている人には驚きました。
牛馬童子像:箸折(はしおり)峠の牛馬童子

 箸折峠のこの丘は、花山(かざん)法王が御経を埋めた処と伝えられ、またお食事の際カヤの軸を折って箸にしたので、ここが箸折峠、カヤの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねられたので、この土地が近露という地名になったという。こここの宝筺印塔は鎌倉時代の者と推定され、県指定の文化財である。石仏の牛馬童子は、花山法王の旅姿だというようなことも言われ、その珍しいかたちと可憐な顔立ちで、近年有名になった。そばの石仏は役ノ行者像である。

「掲示板」
牛馬童子像: 花山天皇は藤原一家にしてやられたと思い続けたのでしょうか?よく解かりませんが、あまり気にして居なかったのではないでしょうか。
興ざめな事ですが、この童子像は明治二十四年頃に作られたもので、あまり古いものではないそうです。

小山靖憲著「熊野古道」ISBN4-00-430665-5
箸折峠の宝篋印塔: 文化財としては童子像の後ろにある宝篋印塔が貴重で製作時期は鎌倉時代の物と推定され、県指定の文化財です。

花山法皇が納経した上に建てられたものとも云わっています。
近露遠景:近露はは熊野街道の宿場町として古くから栄えた里で、古い文献にも度々登場するそうです。箸折峠からの眺めは良くて、心に残る風景です。私の中にある山里のイメージに近い風景でした。
日置川:和歌山県中部を源流として西南部に至る大河。平地が少なく急流である為、ここ近露と下流部の日置が平地がある数少ない在所です。
紀伊山地で産出する木材運搬の川として利用されてきたようです。ここ近露では野長瀬氏(横矢氏)が出て、下流の日置では安宅氏(安宅水軍)がでていますね。
熊野古道なかへち美術館:熊野古道なかへち美術館は、近露に建つ中辺路町立の美術館です。中辺路ゆかりの画家たちの作品を中心に展示されてています。建物を覆う回廊は全面ガラス張りになっているので、中辺路の美しい景色に溶け込むように眺められます。
近露王子址:永保元年(1081)十月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近湯(ちかつゆ)」の湯屋に宿泊しています。王子社の初見は、藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月二十四日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣しています。このように、古くは「近湯」「近津湯」とありますが、承安四年(1174)に参詣した藤原経房の日記以降は、「近露」と書くようになります。建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻について、近露でも歌会が行われています。定家は、川を渡ってから、近露王子に参拝していますので、上皇の御所は右岸にあったようです。
承元四年(1210)、修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記でも同様で、女院は四月二十九日に宿所に着いて、「浴水・禊」をし、翌五月一日に王子社に参拝しています。このように、近露では宿泊することが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。江戸時代には、若一(じゃくいち)王子権現社と呼ばれ、木造の神体が安置されていたようです。明治時代には王子神社となりましたが、末期に金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。なお、跡地の碑の文字は、大本教主出口王仁三郎の筆によるものです。

「掲示板」

今でも近露王子址には、遠目でも社叢が見てとれます。かつての近露神社には樹齢数百年もの巨木が茂っていたそうで、現在王子址を訪れると6メター級の切り株が残っています。また、この先の野中神社には樹齢800年の杉の巨木があって「野中の一方杉」と呼ばれ、和歌山県の天然記念物に指定されています。

明治39年神社合祀令が出されました。当時の日本は日露戦争にからくも勝利して、軍事大国への変貌を遂げる一政略として国家神道を推進し、一町村に一社とするため合祀を進めていました。

当時の日本は国内での木材需要が大変に伸びて、この合祀令を利用して社叢の木材を伐採し利益を得た人たちもいて、和歌山と三重での合祀は全国的にも抜きん出で多かったそうです。

南方熊楠は在野の博物学者でその才能は誰もが認める巨人で有りましたが、このような事柄を目にして一人反対運動に立ち上がったそうです。彼は中央(東京)の知り合いの学者や著名人に書簡を送り、現状を訴え助力を請うたそうです。

明治41年には近野村の16社は合祀され、ほとんどの神木は伐採され残るのは近露と野中の神社だけと成り、熊楠は必死で中央(東京・主として柳田國男)へ書簡を送り続けるかたわら、村長を説得したりして、反対運動を展開したそうです。

しかしながら当時の知事は明治44年の暮れに近露神社のほぼすべてと野中神社の石段周りの九本を残して伐採したそうです。

現在聞くと「ずいぶん無茶だな」と思うけど、近野村にも事情があって伐採した木で学校を作りたかったようです。熊楠さんの反対運動のおかげで、次回中辺路を訪ねる時には「野中の一方杉」を見れるし、また、熊楠さんの反対運動で破壊を免れた、田辺湾の神島や熊野詣で最後に訪れるであろう那智神社林を楽しむ事が出来るのです。

参照文献:山の木のひとりごと 宇江敏勝氏著 新宿書房
近露王子址石碑: 王子址の掲示板にも説明がある、「跡地の碑の文字は、大本教主出口王仁三郎の筆によるものです。」大本教「大本」は、神道のひとつで、戦前に国から宗教弾圧され、神殿ぐるみで破壊されたという組織で、出展は失念しましたが、軍部の将校に支持された事などが国家組織の危機感を増幅させ、結果として大弾圧をされる真因となったと記憶します。

弾圧は徹底を極め、出口王仁三郎に関係するこうした石碑もすべて破壊されましたが、当時の近野村村長「横矢球男」の機転で自分の手による模写だとして碑文にあった「王仁」の署名を削り「横矢球男謹書」として、この石碑は唯一破壊を免れたものと説明版に記してあった。

この村長さん後述する野長瀬一族の末裔の方ではないかと?思われますが、戦前において国家権力に盾つく事はほとんど「命がけ」であったでしょう。

合気道創始者である植芝盛平は田辺の豪農の出自であり、なおかつ王仁三郎に傾倒して大本に入信していた事は著明で、それらの理由から王仁三郎がこの辺りを巡った動機は想像に難くなく、当時「弾圧前」に村長さんが揮毫をお願いした事もたやすく理解できる。

が、その後 大本 が大弾圧を受けてなお 王仁三郎 を擁護する理由は何も無いのに、村長が「命賭け」とでも言うべき 抵抗 に出るのには政治色の計算が成立しなくて、理解しがたいものがある。

和歌山の不思議とでも云いましょうか?紀州には太古から、この村長さんのように権力に媚びない人々を多く排出する地域性を感じます、神武東征の頃の 名草戸畔、南北朝の野長瀬氏、戦国期の雑賀・根来衆、江戸初期の紀州各地の反乱「一揆」、江戸中期の紀伊国屋文左衛門の商戦略、明治期の在野で過ごした博物学の巨人「南方熊楠」、みんな自分の心情に素直で、保身の計算がありません。(観念に従うとでも申しましょうか、人生掛けて大博打を打つとでも言いましょうか?)

その姿は小賢しくなく清廉であると云えるでしょう、いま今日それらの人々と遭えて酒を酌み交わす事が出来るならば、「あの時は、しんろかったんよー」とか、「てきら味方してくれる思たんよー」とか、「わしの考えは今は、誰にも解からんて、いうちゃあるやろー」とか・・彼らの声が聞けるで事しょう。

和歌山的特色を持つ集団が殲滅されてしばらくすると、必ずと言っていいほどこの国は安定期に入るように思います。それは個性「独創」をすりつぶして体制を維持してきた権力機構が繰り返してきた手法による物か?さては時代の変遷に伴う歴史的な必然なのか?は検証のしようもありません。

しかしながら地球的規模での環境破壊が目に見える形で進み、自国の利益や自分が所属する組織の利害だけの思考では解決しえない問題が発生する今日、和歌山的な独創性と、自己保身の計算がなく、観念に素直に従う姿勢が求められている事は時代の要求かも知れませんね。

植芝盛平を主題にした本・津本陽『黄金の天馬』/文春文庫 ISBN 4167314061
近露の家並み:伝馬所跡・・この付近は近露道中といわれ 熊野街道の宿場としてにぎわった所で、江戸時代には十軒近くの宿屋があり、伝馬所もここ(丹田家)に設けられていた。 伝馬所は、紀州藩が官吏の通行の便宜と公用の文書・荷物の逓送のために設置した役所で、ここ近露伝馬所には馬が十二頭常備され、人足は地区民が交代で出て、西は逢坂峠・十丈峠を隔てた高原、東は比較的近い野中との連絡にあたった。 歌人加納諸平が天保初年近露に泊まって、「駅長(うまやおさ)の小筒を吹くからに山のかひこそ声あわせけれ」という和歌を詠んだが、夜中に逓送しなければならぬ至急便がきて、伝馬所の長が竹筒を吹いて人足を呼んでいるのである。人足を呼ぶ合図にはほら貝を吹くこともあった。

「掲示板」
近露の家並み: ご覧のような木造平屋建て、なおかつガラス窓の桟が木製の、都市部では絶滅危惧種に近い家が残っています。

手前の空き地にはコスモスの花が咲き、のどかな時間が流れていました。
野長瀬一族墓所への古道:野長瀬一族の墓所へ至る道は古道の面影を濃厚に残す道でした。

坂を上りながら振り返ると近露の里が見えて、初めて訪れる里なのに何故だかすごく懐かしい思いがします。

概視感(デジャヴ)だと云われればその通りなのですが、個人的には得心できる概視感(デジャヴ)的空間でした。
野長瀬一族墓所:野長瀬氏は古くから近露を治める一族で有ったそうで、野長瀬庄司頼忠の近露庄下司任命は寛喜元年(1229)三月で、南北朝時代には南朝について、大塔宮の味方に付いたり、千早赤坂城の楠木正成に兵量を送ったそうである。それらの功績から野長瀬氏は横矢の姓を賜り南朝が衰退すると共に歴史の舞台から降り近露に居を定め、子孫は現代に続くといわれています。
紀州民話の旅

千早赤坂城攻めの頃は、戦勝方はほぼ解かっていたでしょうに、ここにも和歌山的(自分の心情に素直)な方々が存在していたのですね。
ちかつゆ上小野温泉 ひすいの湯:中辺路町近露の上子野温泉「ひすいの湯」は、湯治場の共同浴場のような素朴な趣きのある温泉です。日置川沿いにあり、川風が心地よく、のんびり出来る温泉です。泉質はぬめりがあって、しっとりと肌にまとわり付いて疲れが抜けていきました。

滝尻〜近露への散歩でしたので、ルートに高低差があり足がカチカチに疲労していましたので、大変にいい気持で温泉を楽しめました。

このルートは半日行程であり昼過ぎに近露について温泉に浸かってくるのもお勧めですよ。近露温泉上子野温泉ひすいの湯
近露バス停前:滝尻を7:05頃に出発して近露到着が13:30頃でした。JRマップでは所要時間5時間程度でしたが、高低差がきつくて途中休憩をしながらだったので、6時間半程度かかりました。

温泉にはゆっくり一時間ほど楽しみましたがバスの時間が15:18分でしたので風呂上りに近くの美術館を見学したり、近露の集落をぶらぶら散歩して過ごしました。

コスモスの花が咲き、遠い山々は濃い緑に覆われ大変に美しい里でした、古里のイメージを絵にしたら近露のような絵を描く人が多いでしょうね。

バス停には古道歩きのご夫婦が二人連れ添ってバスを待っていました。もう子育てを終われた年頃のご夫婦でお互いを労わるような気配で連れ添っていました。少し傾いた日が向かいの酒屋さんのビールケースを照らしていた。
弁慶祭り:10/6は田辺市では弁慶祭りが盛大に行われていました。闘鶏神社にて祭事を行うのですが、車両通行止めの区間もあり、帰りの高速バスは迂回していました。

警察官も大勢が交通整理に当たっているようで盛大な祭りのようです。
晴れがましい弁慶像:そして駅前の弁慶像には弁慶祭り実行委員会奉納の餅と供物が供えられ、紅白の垂れ幕が掛けられていました、強面の弁慶さん・この日は少し恥ずかしそうに、見えましたよ。
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