熊野街道散歩もいよいよ紀伊路が終了しそうです。 太陽の光まぶしい印南から南方熊楠の終焉の地田辺まで歩きます、この辺りから和歌山名産の梅がミカンに変って登場します、もう夏の日差しに近い中をテクテク歩きました。コース 07/5/28 |
熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房 熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 を参考に訪問しました。 |
印南駅:天王寺6:47発9:13印南着の電車で行きました。 | 印南川:饅頭屋さんの縁起図9辺りですね、清姫は己が姿を印南川に写して驚いていますね。 | ||||||
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日本の夏:蚊取り線香で著名な会社がありました。最近は温暖化の影響で生態系が熱帯系に変化しているそうで、虫の種類も変っているんでしょうね? | 東光寺の鎌倉期の宝篋印塔:東光寺には小栗判官の伝説があります、また、鎌倉期の宝篋印塔も奥に立っていました。 | ||||||
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斑鳩王子址:かつては光川地区に存在したらしい、明治41年印南八幡社に合祀されたが昭和25年にこの地に遷座したとの事です。 | 小栗伝説の掲示板:切目王子址の近くに東光寺薬師如来霊験記の高札がありましたが半分欠けていました。小栗さんはすごい事になっていらしゃいます。 | ||||||
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切目王子址:王子社の中でも別格とされる五体王子の一つ、平清盛が熊野参詣の途中、源義朝の反乱(平治の乱)の報を受け、この王子社に戦勝を祈願して都へ取って帰った事でも有名な王子社です。 | ホルトの木:境内には県指定天然記念物のホルトの木があります、樹齢は300年とも言われています、この木の反対側に神木と伝わるナギの木もあります。 | ||||||
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切目の町並:街道沿いには古い町屋があって街道風情が楽しめる。 | 切目川:切目を境に気候・潮目が変わるとの事、ここいら辺りから南紀と言うべきか太陽の光もこころなしか明るい気がしました。 | ||||||
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光明寺のソテツ:切目の光明寺は徳本上人の立像があるが、巨大なソテツの木がある、温暖な気候のためかこの辺りからソテツの木を見ることが多くなります。 | 若宮社遺跡:街道沿いに古くからある社あった、明治41年王子社に合祀されたので、聖地として整理してここに伝える旨の高札がありました。 | ||||||
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切目中山王子社:中山王子社の場所は榎峠を越えた先の王子谷にあったとされる説があります。王子社にある高札にもその旨が書かれてありました。 | 室町期の宝篋印塔:王子社の前には室町期の宝篋印塔がありました、古道に向かって並んでいます。この辺りから岩代の徳本石ほどまでは古道の雰囲気が残っています。 | ||||||
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切目中山王子社からの眺め(S→N):振り返ると印南から御坊にかけての気色が広がる、古の巡礼者も眺めた景色でしょう。 | |||||||
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たわわになる梅の実:この辺りからミカンに変わって梅が植えられている。 | 榎峠を下る古道:峠を下って2k程過ぎるといい雰囲気の作業小屋がありました。 | ||||||
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徳本上人名号石:道の分岐点にはおなじみ 徳本上人 名号石 があります。 | 光照寺:古道を南下すると光照寺がある境内の北側に有馬皇子の万葉歌碑があります。 | ||||||
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有馬皇子の万葉歌碑:若くして死を賜った皇子に、人々は涙を流す。死後1300年以上経過した現在でも皇子のファンとでも言う人たちが沢山存在しています。 | 岩代の結び松:有馬皇子は謀反の相談をした蘇我赤兄にしてやられた・・・と思った事でしょう、若すぎたのでしょうね。後に紹介する花山法王も若かった、権力闘争をする者にとって己がブレインの力量は命をも左右するのですね。 | ||||||
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岩代王子址:1083年の記録に登場する古い王子社、社殿の板を削り御幸に参加した人の名や人数を書き込み打ち付けたされる王子社、松原の中にあり潮騒が響いています。 | 岩代王子址から千里の浜を望む:塩屋王子から天神崎にかけては製塩遺跡が多く存在するようです。 | ||||||
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近世と中世の古道:中世以前は岩代王子〜千里王子までは海岸伝いに歩いていたようですね、かつての古道は通行不可との注意書きでしたが、古道をたどってみようと思ったのが間違いのはじまりでした。 | 天神社:古くからある神社、付近には八基の古墳があったそうですが、国鉄開通と海岸の浸食によりほとんど消失した、岩代王子社との説もある。との みなべ教育委員会の高札がありました。 | ||||||
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岩代王子〜千里王子へ向かう中世以前の古道:漁港の横に海岸沿いに岸壁がありました、進んでいくと途中で通路がなくなっていました。素直に近世の街道を進めばよかった・・・ | 岩代王子〜千里王子へ向かう舗装道:気を取り直して舗装道路を進む、振り返ると狼煙山が見える。 | ||||||
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岩代王子〜千里王子へ向かう古道:JRのマップに従い道を進む、この辺りは道の標識も小さく見落としやすいので注意です。ここもビニールハウスの横の藪道を進みました。 | 岩代王子〜千里王子へ向かう古道:千里王子へ向かう古道?だらだらと下る、途中南へ分岐する道がありましたが標識がなくて迷いました、標識の整備をしていただければ有りがたいですね。 | ||||||
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ガードをくぐる:不安を胸にJRのガードをくぐると大海原でした。岩代王子址から山道ばかりを歩いてくるので、この風景には少し感動する。 | 千里の浜:花山法王はここで病に伏して、 旅の空 夜半のけむりと のぼりをば 蜑(あま)の藻汐 火たくかとや見む と詠んだそうです。実際に千里浜の南端部の大目崎泊遺跡からは弥生期から平安期にかけての製塩土器や炉が発掘されているそうですので、法王はここで実際に藻汐を炊く煙を見たのでしょう。 | ||||||
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千里王子址:花山法王など歴代の貴族が参詣した記録が残る王子址、浜の貝を供える風習から 貝王子 との別名があったそうです。 花山法王の歌碑がぽつねんと建っていました、彼の天皇在位はほんの一年10ヶ月で法王になった、陰謀家の藤原兼家にしてやられたようなものだったようです。 |
千里観音:近西国33番札所の一つで厄除け観音として霊験あらたかな観音さん、浜からの参道には33体の観音が祀られている。 | ||||||
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千里観音裏の古道:リンクした地図では道が記載されていませんでした、NET地図にある道よりさらにJR沿いの道です。 観音さん裏あたりからは少し解かりずらいルートでした、標識の整備をしていただければ有りがたいですね。 |
南部峠の地蔵堂:南部峠は熊野古道の要地で、峠を往来する人々はこの地蔵にお祈りを捧げました、骨つぎに霊験あらたかであると伝えられています。この地蔵堂前の道も古くからある主要街道であったようで、趣のある道を南部へ向かい下ります。 | ||||||
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南部川:南紀地方にしては耕地面積の大きなこの河の周辺には、太古からの遺跡も多く出るそうです。 | 南部の町並:南部は備長炭による富の集積があったようで、立派な作りの町屋が沢山ありました。 | ||||||
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丹賀地蔵堂の銀杏:県指定天然記念物で、幹周は胸高で4.2メートル、高さ約25メートルに達し、昭和49年12月に県指定名勝天然記念物に指定されました。との事でした。(掲示板より) | 三鍋王子址:熊野九十九王子社の一社で、建仁元年(1201)後鳥羽上皇の参詣には、絹6疋・綿150両・馬3疋を奉納したほどの大社でした。(鹿島神社の本殿は三鍋王子社の本殿であったもので、18世紀中期の貴重な建造物であるそうです。 境内には小栗判官が水を飲んだという小栗井戸がありました。 |
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南部の椰子の木:みなべの町の国道沿いには椰子の木が植えられていて、なんだかハワイアンな気分です。青い空のもとあしどり軽く田辺に進みます。 | 鹿島神社:ここはみなべ町の沖合いに浮かぶ鹿島の鹿島神社の拝殿の地で、明治10年、三鍋王子社の本殿を移築されました、江戸時代中後期の建造物との事です。 境内には大きなヤマモモの木があり、かつては県の天然記念物に指定され、当時は幹周4.4メートルもありましたそうです。その後、主幹が枯れて枝木が生長しているそうです。(掲示板より) |
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鹿島:鹿島は、南部湾の海上にある周囲約1.5キロメートルの島で、古来より鎮座する鹿島神社をはじめ、竜ノ口観音、戦勝観音などがあり、島全体には亜熱帯植物など樹木鬱蒼と繁り景勝も見事であり、県立自然公園に指定されています。 北島にある宝篋印塔は、平敦盛の冥福を祈るため、弥平兵衛宗清が建立したと伝えられています。 (みなべ町の紹介ページより引用) |
弁慶像: 堺地区を過ぎると国道沿いにやたらとかわいい弁恵像がありました、ここで田辺市に入ります。 | ||||||
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芳養王子址:芳養王子は、天仁二年(1109)10月、熊野参詣をした藤原宗忠の日記『中右記』に、「早(芳養)の海浜に出て河を越え、早王子に参った」とあり、また建仁元年(1201)10月の藤原定家の熊野御幸記に、「ハヤ王子」と出てきます。現在芳養王子跡は、大神社となっています。 (田辺市の紹介ページより引用) |
芳養の町並:大神社の参道にあたる路沿いには古い作りの町屋があって趣がありました。 | ||||||
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芳養一里塚:芳養王子のある大神社の東、松原の集落の中にあり、そばに榎の大木と地蔵堂があります。 和歌山から18里の一里塚で、地元の人々からは「塚の地蔵さん」と呼ばれ親しまれています。 (掲示板より) |
牛ノ鼻聖徳地蔵: 熊野獨参記に 是ヨリ西 ハヤ村トノ間ニ牛ノ鼻トテ岩穴アリ 其形牛ノ鼻 との記述かあるそうです。 かつては御坊の熊野神社の大渡御がこの牛の鼻まで来る慣わしがあり、往時は大変に盛況であったそうです。 |
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芳養八幡神社例大祭潮垢離所:芳養八幡社の例祭は11月3日で、宵宮には芳養の海まで潮垢離に出かけます。当日は馬が出て、流鏑馬(やぶさめ)、神輿の御旅所への渡御(とぎょ)があり、そのあと馬駆けが行われます。 田辺の塩垢離浜記念碑の辺りは現在は陸地と成り往時をしのぶ事が難しいのですが、かつてはこの様な場所ではなかったか?と思えます。 |
元島:天神崎の沖合いに浮かぶ3つの島で、みなべの堺地区を過ぎた辺りから視界に現れます。 海中には大鳥居が建てられており、弁財天が祀られています。磯釣りのスポットとしても有名で、沢山の釣り師が訪れるようですね。 |
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潮垢離浜記念碑:熊野に参詣する人々が、道中の随所で水垢離、潮垢離を取っていました。田辺は最後の潮垢離を取る場所だったので、特に念入りに行われたと思われます。 今は児童公園の一角に石碑があるのみで往時をしのぶ事は難しいようです。↑上記芳養八幡社の塩垢離所がかつての姿に近いのでしょうね。 |
田辺の町並み:戦災を免れた町並みはどこか郷愁を誘います。 | ||||||
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田辺は熊野への入り口にあたる事から、口熊野と呼ばれています、ここからは中辺路・大辺路が分岐しています。 これからは中辺路を進む事になります、日帰りでの旅は難しくなりここからは泊まりでの旅となるでしょう。 |
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出立王子址:中辺路へ入る巡礼者には、潮で身を清める最後の場所として、ここ出立は重要な王子でした。 ここで気を引き締めて中辺路を進んだのでしょう。 この王子の脇を流れる会津川から東を眺めると、熊野の大山塊が見える。 |
これからは古の巡礼者がたどったように中辺路を進み、本宮へ至り、川を下って新宮へ、それから海岸つたいに熊野那智大社へ、そして最大の難所・大雲取越を進み本宮へ行こうと考えている、さてさて何時までかかることやら? | ||||||
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TOP・・・・・・・・CONTENTS |
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熊野街道散歩 大辺路@ 田辺・(蟻通神社、闘鶏神社) | |||||||
熊野古道はここ田辺において中辺路と大辺路に分岐する、定家か御幸した道は中辺路で散々苦労して熊野本宮にたどり着いたようです。 ここから東方を眺めると果無の大山塊から伸びてきた山脈の一端がが見えて、これからの険路が思われます。 |
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浄恩寺の掲示板:寺の掲示板に言葉が書きつけてありました、いにしえの巡礼者は過酷な旅を続けて熊野へ至ったようで、毎朝神仏に感謝していたのでしょうね。私も心新たに中辺路を進もうかな? | 浄恩寺:三十三間堂通し矢総一の弓士和佐大八郎の墓碑と豪弓が現存する。 紀州備長炭の創始者備中屋長左ヱ門の墓碑も有るそうです。 |
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和佐大八郎墓:弓名人 和佐大八郎の田辺での墓が浄恩寺にありました、和佐王子址近辺で和佐家の墓に出会いましたので、縁を感じました。 | 会津川:田辺市を流れる河、中辺路はこの河の北岸を東進し高山寺辺りを渡河したらしいが、はっきりとした事は解からない。 大辺路は会津川を渡り、田辺市内を南下する。 |
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道分石: 北新町(三栖口)の道標は、高さ218cm、幅厚約30cmの石製角柱で、安政4年(1857)の秋、大阪西横堀炭屋町の石工・見かげや新三郎が再建したものであるそうです。
近世の中辺路、大j辺路の分岐点にあたる。 |
蟻通神社:地元では「御霊さん」と呼ばれ親しまれている知恵の神様です。境内にある楠の木は、街中にあるとは思えない程の大木で、安政の大火の時に水を噴いて町を守ったという伝説が残っています。 掲示板より |
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闘鶏神社:闘鶏神社は、通称「権現さん」と呼ばれ、御祭神の中には、熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)も勧請(かんじょう)されています。熊野権現の三山御参詣に替えるという三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を負っていました。熊野本宮大社が川の増水で流失する以前の社殿の形を再現しています。 かつての和歌山県知事 西口勇 氏の著作によると、近世はこの闘鶏神社まで来たことで、熊野に参拝をしたとされていた人もいたようです。 |
神の大楠:境内には大きな」楠があって存在感がありました。 樹齢は不明ながら千年程もありそうです。 和歌山県出身の作家神坂次郎氏のエピソードを書いた掲示板がありました。 |
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弁慶像:「義経記」のよりこの人物が田辺生まれだとする考えは、広く信じられている。 弁慶は熊野別当家の嫡子で、比叡山で修行を行った後、山を降りるにあたって自ら名付けたのが、西塔武蔵坊弁慶という一般によく知られている名前であります。 この方(像)とはこれから何回もあう事となる・・・ |
紀伊田辺駅:この日は朝9時過ぎから約30km歩きましたので少々疲れました、駅前でビール(大阪より何故だか¥10−安いのです?)を買って17:47分のスーパーくろしおで帰阪しました。あー疲れた・・ | ||||||
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