熊野街道散歩 中辺路C(1) 熊背川王子址〜本宮


 熊野街道散歩を始めて早いもので足掛け2年の歳月が過ぎました。何気に始めた街道散歩でありましたので、さほどの目的意識も無く成り行き任せの訪問で、時間が空けば散歩をする程度の訪問でありましたので、先も見えず、いつになれば熊野本宮に着くのやら・・と思っていましたが、いよいよ今回で結願の本宮に行き着く事が出来そうです。

 中辺路の後半から、残りの熊野街道をどのように廻るか色々と思案していたのですが、気候のいい春は街道めぐりには都合がいいのですが、紀伊半島は日本でも有数の多雨地帯で、連泊する必要のある本宮・新宮・那智大社巡りには、雨に遭遇する確立がいたって高く、ちょっとした山岳コースに近いルートに成る事と、雨が嫌いな私には辛いものが有る事が判明しました。

 熊野三社巡りとなる今回は、まず 高速バスで田辺へ移動後に現地にて泊まり、→路線バスで小広峠へ移動、→本宮→大斎原→大日越→湯峰泊→バスで新宮移動→速玉大社→那智・勝浦泊→那智から那智大社→バスにて勝浦→JRにて天王寺経由自宅へ帰還。この間の徒歩距離が約50k程度の散歩となり、経験の少ない自分にはかなりハードな旅に成るであろうと多少不安にも思いましたが、個人的に4連休が取れる事はそうそう出来ないのでチャレンジしました。また、現在は熊野川を川船で下る企画があるのですが、12月から2月末まではチャーター便以外はお休みだそうです、いにしえの貴族の熊野御行をトレースする場合にはこの熊野川の船下りは非常に魅力的な企画ですが、季節柄無いものは仕方がないので今回はあきめる事としました。

 暖冬がささやかれた07年でしたが、年末は大寒波襲来と燃料高騰で日本列島はてんやわんやでした。 今回は気温が低く厳しい道行になるが、天候は安定する一月を狙い準備をしましたが、08年1月11日〜13日にかけて雨模様おまけに雪の可能性まであるとか?。
 ・・・過去の天候を調べる限りはほぼ晴天なのに、これも地球温暖化の影響か?とあきれめて、ザックにカッパや着替えを無理やり詰め込み、何とか荷作りを終え高速バスに乗り込んで田辺へと向かいます、三泊四日で一気に熊野三山巡りができますか???
  (08/1/10〜1/13)


中辺路C (1) 熊背川王子址〜本宮  
歩行(小広峠-湯峰)万歩計データ26.72km 08/01/10〜1/11  ルート






白浜と大阪間を往復する高速バス、一日8便でリーズナブルです。今回は1月10日の仕事を終えてから19:40分発の最終便を利用しました、約3時間で田辺駅前に到着する。途中紀ノ川サービスエリアでトイレタイムがあります。 おなじみの夜の田辺駅、この日は高速が順調で少し早めに到着しました。ホテルに向かう道すがらスーパーがありますので、明日の朝食とオヤツなんかを仕入れました。
今回は天気予報で雨の確率が70%以上有り、雨に降られるだろうからカッパ・傘・換えの下着、等が増えて大荷物となりました、たぶん装備重量は10kg超となっていたでしょう。
これを背負い50km歩いた感想は、荷物は出来るだけ持たないと云う事でしたほんと。
翌朝6:31の始発にて小広峠へ向かいました、冬の朝はまだ空けていなくて真っ暗ですね、弁慶サンも心なしか寒そうです。駅前3分位に有るコンビ二で昼用のおにぎり4個ほどとお茶を仕入れてバスに乗ります、田辺駅から小広峠まで約一時間のドライブですが、誰も乗り込んではきませんでしたよ。
近露王子横のトイレ前で3分ほど停車していました、この時間をお借りしてトイレタイムと写真を一枚いただきました、運転手さんとのお話では、本宮まではかなり時間が掛かりますよと親切に教えてくれました。 小広峠バス停:小広峠のトンネルを抜けると小広峠バス停が有る、田辺からの場合はバス停の向かい側の舗装路に入り小広峠を目指す、雲行きが怪しくて今にも降り出しそうな空模様でした。
熊瀬川王子跡: 熊瀬川の地名は、承元四年(1210)、修明門院の熊野参詣に随行した藤原頼資の日記の五月一日条が初見のようです。この日一行は、近露王子を出発し、熊瀬川で昼食をとり、本宮まで行っています。
寛喜元年(1229)の頼資自身の参詣では、十一月五日、同じく近露を出発して、熊瀬川で昼食をし、湯川で宿泊しています。「熊背川」王子の名は、鎌倉時代末期の『熊野縁起』(仁和寺蔵)にのみみえます。熊瀬川の地名は、草鞋(わらじ)峠の登り口付近一帯をさしますので、王子跡はこことするのが一応妥当でしょうが、その他の文献には見えませんので、小広王子と同じとする意見や王子社の存在そのものを疑問視する意見もあります。 掲示板
草鞋峠: ここ草鞋峠(標高五九二M)は、西に小広峠、東に岩神峠をひかえ、谷川を渡っては上り降りする相次ぐ峠の一つである。平安・鎌倉時代に、小平尾(小広峠)に接して、大平尾と称されたのがこの峠のことかとみられる。江戸時代には、草鞋峠という名称のほか、この峠の西側の坂は、熊瀬坂、東側の坂は女坂とも呼ばれた。この付近の山道は、蛭降峠百八丁といわれ、山びるに悩まされた所だという。 掲示板

ここから三越峠までが、大雲・小雲ルート除く 中辺路 随一の険路だそうです、勾配がきつくて心臓がバクバク・汗が噴出してきました。草鞋峠を越えて急な下りがありますがそれを女坂と呼んでいたそうですね、かつては山びるに悩まされた事だけあって、昼なお暗い雰囲気です。
仲人茶屋跡: 女坂を下ると小さな橋が架かる渓流があり、その先にかつてここで茶屋があったそうである、女坂とその先にある男坂との間に当たるので 仲人茶屋 との呼び名であったそうですね。

仲人茶屋を過ぎると男坂が始まります、勾配がきついハードな上りがしばらく続き、日ごろの運動不足を思い知らされる事になります。

100メーター程進むと一休みして上ります、汗が拭きだしてシャツがずくずくになりました、人もいないのでセーターを脱いでシャツ一枚で坂を上るのですが、背中から湯気はでるわ、メガネは曇るわ、で なかなかきつい坂でした。

この坂を越えての道行きは大変で有った事を身をもって知る事が出来ましたし、もう一つ知った事は、服は薄手の物を重ねて着たほうが体温の調整がしやすくて山歩きには都合が良い事を知りました。
岩神王子跡: 天仁二年(1109)熊野に参詣した藤原宗忠は、十月二五日に「石上(いわかみ)の多介(たけ)」(岩神峠)にあった王子社に参拝しています。
この時、社辺には「田舎」(地方)から熊野に参る途中の盲人がうずくまっており、宗忠は食料を与えています。王子社の名は、建仁元年(1201)の藤原定家の日記には「イハ神」、承元四年(1210)の藤原頼資の日記には「石神」とあります。江戸時代以降は、「岩神」と書かれることが多く、小祠がありましたが、後期には荒廃して、『紀伊続風土記』には、岩神王子旧址とあり、「社も印もないのに、毎年祭日にはそこに神酒を供えていた」と記されています。明治十年(1877)王子神社(湯川王子)に合祀され、この王子神社も後に金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。明治初年にこの岩神峠を通る道が廃道になったため、王子跡は山林中に埋もれて、約百年間不明になっていました。

ここはかなりの山中です、藤原宗忠が900年前に出会った盲人は果たして無事に 熊野坐神社 にたどり着けたのでしょうか?900年もの昔に盲人がこの場所にたどり着けた事に感慨深いものを感じた、平安時代は想像するには遠すぎて遥か霧の中のような感じがするのですが、おそらくは人々の力を借りて巡礼する事が出来る時代だったのでしょう。
現在のこの国より、遥かに心豊な時代であったのかも知れませんね。
林道と合流: 岩神王子址を過ぎると晴れ間が出てきました、日がさして気温も上がってきます、しばらく進むと林道と合流します、林道脇には著名な製紙会社の境界碑が立っていました。 道湯川への古道: 道湯川へ向けて下りが続く、雨の多い南紀らしく古道沿いの岩にも びっしり と苔が覆っています。
おぎん地蔵: この地蔵には「妙安自楽信女、俗名おぎん」と刻まれ、文化一三年(1816)十月二九日がおぎんの亡くなった日である。この女性は京都の芸者であったという。道湯川の豊之丞をしたってここまで来て、もうすぐ道湯川という所で、二人組の追いはぎに襲われ命まで奪われた。土地の者がその死を哀れんで、地蔵をたて、おぎん地蔵と呼ぶようになった。掲示板 おぎん地蔵を過ぎるとご覧のような大岩がある杉林を通ります、大岩にはびっしりと苔が生えていて雨の多さが想像できました。
蛇型地蔵尊:  昔、豊臣軍と戦って敗れた湯川直春が、当地に隠れ住んでいた。直春が逃れてきた時、強盗に襲われ、格闘のすえに賊を組み伏せたが、あいにくと刀を持ち合わせておらず因っていると、その時突然、空から蛇の形をした剣が降ってきた。おかげで直春は賊を刺し殺すことができたのだが、その剣は石になってしまった。現在、蛇形地蔵専が背にしている石が、その蛇形石の一部だという。角川書店 紀州の伝説より転記。

地蔵は明治22年の大水害以前は旧岩上峠にあったそうです。峠路では、ダルにとりつかれ倒れてしまい、巡礼者の遭難などが相次いだため、寛政年代にこの地蔵尊をたて遭難を防いだそうです。
道湯川川: 蛇型地蔵の向かいには渓流がありその上に小さな橋が掛かっています、この橋を越すと道湯川の廃村に至ります。
道湯川の廃村:道湯川は湯川氏発祥の地で、ここで力をつけた湯川一族は日高地方にまで勢力を広げましたが、戦国の終焉と共に歴史の舞台から消え去りました。 湯川王子址: 今はただ山中の杉林の空き地にすぎませんが、かつては上皇達の宿泊を担うほどの人家があったようです。深山の中に少し開けた場所がありその辺りに集落跡が集中していました。
湯川王子址: 昭和31年まで人が住んでいたそうです、王子址の神社や蛇型地蔵も手入れがされていて定期的に人が入って清掃されているようです。 三越峠への坂: 道湯川の廃村を過ぎるとまた勾配のきつい坂が続きます。本日三回目の急坂で足が笑っていました。
三越峠: 現在は田辺市に属していますが、かつては奥熊野と口熊野の境で昔はは関所が設けられ、近代半ばまでは茶店も軒を連ねていたといわれています。 道川の廃村: 三越峠を過ぎるとこれも廃村となった道川集落を通過します、五右衛門風呂や、一升瓶なんかが落ちていて寂しげな場所です。
林道から音無川へ: 道川の廃村辺りから林道が「始まります、古道はこの林道から離れ音無川へ下って行きます。 音無川源流部:林道から下った古道は音無川の源流部へ至ります、音無川は熊野本宮辺りで熊野川と合流しますが、大昔の熊野参拝の際には音無川を徒歩で渡り本殿へぬかずいたそうで、これを ぬれわらじの入堂と言ったそうです。
赤木越分岐: 音無川に沿う道を下るとやがて赤木越との分岐点へ至ります。近世の熊野詣では赤木越をして湯峰へ至り、そこで温泉で湯垢離を掻き大日越で本宮参拝に向かったそうです。
この分岐点には広場があり、トイレもありました、春には花が咲いて綺麗な所のようです。 広場にある小屋には通船(伝馬船)が展示されていました、かつてはこの辺りまで船で荷が行き来していたようです。 
船玉神社: 赤木越との分岐を過ぎるとすぐに船玉神社の赤い鳥居が見えてきます、船の神を祀る神社との事です。 船玉神社:船玉神社の社の両脇には剣に龍神が巻きついたかっこいい石造物がありました、何らかの謂れがあるのでしょうが、わかりませんでした。
猪鼻王子址: 船玉神社から音無川から離れる林道沿って道を進むと猪鼻王子址への道しるべが出てくる、導に従い右下に下ると王子址があった、ガイド本なんかにはこの王子址でのお地蔵さんの写真を見かけるのですが、お地蔵さんが見つけられませんでした。 発心門への坂: 猪鼻王子址を出た古道はやがて林道に合流しますが。しばらくすると林道から階段で分岐します、これが発神門王子への最後の登り道となり最後の汗をかきました。
発心門王子址: ここからは本宮大社の神域と認識され、おおきな鳥居があったと伝えられています。
ここからの古道歩きは人気があるようでバス停がありますシーズンに当たる3月から11月は最終便14:03が在る様ですが今の時期(08/1/11)は12:13が最終でした。
龍神バス
世界遺産記念碑:世界遺産登録記念の碑です、和文と英文で説明がされています。和歌山県はずいぶん骨折りして、この参詣道を世界遺産に登録していただいたようです。

おかげで、現在多くの人が古道を楽しめるわけですね。
発心門の集落: 発心門王子を過ぎると綺麗なトイレがある休憩スペースがありそれを過ぎると高原集落がのどかな風景を見せてくれていました。 発心門の集落:この集落にはお迎え人形やご覧のような木彫りの人形があちらこちらにあって目を楽しませてくれます。
この後、道を間違えて水呑王子址を見落としました・・残念。
菊水井戸: 集落の舗装道路をしばらく進むと、昔から参詣者ののどを潤したといわれる井戸が、今も大事に保存されていました、つるべ井戸は珍しいですね。 百前森山:別名「三里富士」と呼ばれ、果無山脈の峰の一つですが、単独峰のようでま富士の名が冠せられたのでしょうね。
この辺りからは北を向いても、南を見ても、山の重なりが美しい風景を楽しませてくれます。
和泉式部供養塔: 伏拝王子は熊野本宮まで約4kmの地にあり、東南の方向に熊野本宮旧社地「大斎原」が望まれるため、熊野本宮遥拝所としての性格を有していたと思われます。しかし、創記は不明で御幸時代の記録には名がみえず、享保15年(1730)「九十九王子記」には水呑王子の次に伏拝王子がみられます。 徳川頼宣公が寄進したと伝えられる伏拝王子の石祠と並ぶ「和泉式部供養塔」は、笠塔婆の上に宝筺印塔の塔身と蓋を積み上げたもので、延応元年(1239)8月の銘があり、三百町卒塔婆の一つではないかともいわれています。
 この碑にはまつわる話として、和泉式部が熊野参詣の折、この地で月の障りちなり参詣できず、ここにて熊野本宮大社を伏し拝み「晴れやらぬ身の淳き雲のたなびきて月の障りとなるぞかなしき」と詠んだところ、その夜熊野の神が夢に現れ「もろともに塵にまじわる神なれば月の障りも何かくるしき」とのおつげがあり、喜んで参詣したとの風塵集巻20の中に記されております。 これは熊野権現が何事も心広く受け入れる神であることの事例として、聖たちが諸国に広めたものと考えられます。  掲示板
伏拝王子址:熊野の重々たる山並みの彼方に大斎原を見た古人たちは思わず伏拝んだと云う。

何気に始めた熊野街道散歩ですが、一年八ヶ月目にしてようやく本宮を見るに至りました、が、この日は今にも雨が降り出しそうな天気で、空気の透明度もあまり良くなくて、肉眼で旧社地を確認する事は出来ませんでした。
これは椿でしょうか?美しい花を咲かせています。 三軒茶屋跡: どんどん古道を下っていくと木製の吊橋がある、この辺りにかつて茶屋があり巡礼者達は一服して最後の道を歩いたのでしょうね、現在はトイレが設えてありました。
三軒茶屋跡:九鬼ヶ口関所跡かつて九鬼に在ったとされる関所を再現されていて、往古の古道の雰囲気を盛り上げてくれる。

近世の関銭は7文〜10文程度で在ったそうで、現在の貨幣価値では200円前後であるそうです。
三軒茶屋跡:三軒茶屋跡付近にある古い道標、江戸期になると伊勢詣でを終えた後に、紀三井寺や高野山へ参拝に向かうのが通例となっていた様子で、ここは中辺路と小辺路の分岐点にあたる。
「右 かうや 十九り、左きみい寺 三十一り」 と刻まれています。
三軒茶屋を進むと登り道になり見晴台へのわき道がある、雨が降りそうで躊躇したが、看板に誘われて進んでみた。 見晴台:迂回路を5分ほど進むと展望のいい場所に出て、ここから大斎原の大鳥井が見える、熊野の山々が墨絵のように重なり大変美しい風景が広がる。
祓戸王子: 見晴台を下るとまもなく階段を降りて団地の中の舗装路を歩くと、前方に熊野大社の森が見えてきます。その森と並ぶように祓戸王子址がある、かつてはここで最後のお払いをして大斎原へ向かったようです。 祓戸王子: 熊野本宮のすぐ隣にある関係でしょうか、大変綺麗に清掃がなされていました。
熊野本宮:祓戸王子のすぐ隣に熊野本宮の北口鳥居がありました、いよいよたどり着きました。
歩いた日々が走馬灯のようによみがえります、感動しました。
熊野本宮:訪問日は1/11日でありまだ正月飾りをされていました、この幟もお正月バージョンでしょうか?今年の干支に 感謝 の文字が書かれています。
熊野本宮:拝殿の前にはお正月用のお札参授所が出ています、平日(1/11金曜)にも拘わらず多くの参拝者があちらこちらで記念撮影をしていました。 熊野本宮:拝殿前の大門、人生出発の地 蘇る日本の心 いい言葉ですね。
熊野牛王神符:牛王神符を頂いてきました、日本第一の文字が泣かせますね、戦国武将はこの御符の裏に諸文を書き 誓いをたてたんですね、盗難除けや厄除け、家内安全のお札として用いられていたようです、昔の巡礼者はお土産として沢山頂いてきたのでしょうね、私も沢山頂きました。 ついでに手拭も頂て来ました、伊勢に七度 熊野に三度 どちらかけても 方詣り といわれたように江戸時代の人々はこぞって伊勢詣りから熊野詣りそして西国33詣りへの旅を楽しんだようですね。
熊野本宮参道横の古道:現在の社は明治24年に遷座されたものなので、参道の東側にある階段がかつての古道であるとのことです。 熊野本宮:古道を歩いてくると裏門から拝殿へ至るので正面へは最後に廻る事になります。旅の無事を感謝して遥拝しました、この後大斎原へと向かい、大日越で湯峰へと進みます。

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