熊野街道散歩 A(遠里小野辺り〜大鳥神社)
近年は熊野街道がブームです。世界遺産に認定されて以来観光ツアーもたくさん企画されて人々が色々な形で訪れていようです。 ブームにあやかり愛車(ちゃりんこ)ケン号に乗ってぶらぶらと徘徊して見ました。 06/5/5 コース |
熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房 熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 を参考に訪問しました。 |
墨江小学校前(津守王子跡)
|
|||||
↓ | |||||
安楽寺辺り 遠里小野は古くから人が住み暮らした場所であるようで遺跡が有ったり、古い文献や和歌に地名が載っている街です。 ふるくは とをさとおの または うりうの と呼ばれてそうです。 古くからある街だけに街道が集まってこる場所でも有ったようで、この辺りに熊野街道と八尾街道の分岐があったそうです。 |
|||||
↓ | |||||
安楽寺の説明版 案内板には熊野街道の説明とこの場所が街道の分枝である旨説明が刻まれていました。 大昔はこの辺りの西側まで海が迫っていたのでしょう。 大和川の開削で遠里小野は大阪側と堺側に別れました、そのため堺市側にも遠里小野の地名は残っています。
|
|||||
↓ | |||||
遠里小野小学校の説明版 遠里小野小学校前の熊野街道案内板 連休で学校は休み、ひっそりと佇む熊野街道
|
|||||
↓ | |||||
大和川を渡る。 遠里小野の大和川を渡る、古くは遠里小野は住吉大社に収める灯明油を作る場所でもあったそうです。 その昔はこの辺り一帯が荏胡麻や菜の花で埋め尽くされていた事も有るのではないかと思いながら、橋を渡ります。 堺の(北・南)花田と云う地名の起こりは開花期に一面に見事な花盛りになった遠里小野へ至る路(口)から始まったようです。 |
|||||
↓ | |||||
境王子跡 熊野街道沿いには、かつて熊野本宮に至るまでに熊野権現の御子神である王子が九十九箇所有ったそうです。今ではほとんど痕跡をとどめておらず、この境王寺跡も文献・その他で比定された事が説明されていました。 泉州には現在も○○王子との地名が数多く残っています。 |
|||||
↓ | |||||
方違神社 道はやがて方違神社に至ります。古くから方位吉凶にかかわる神社です。 私も引越し・改築の節には必ず訪れる場所です。 堺市指定保存木がありました。 |
|||||
↓ | |||||
竹之内街道 方違神社を南下した街道は三国ヶ丘高校の脇を通り竹之内街道と合流しました。 大仙稜の北に当たるこの辺りは西高野街道もあり古街道の合流地点だったのでしょう。 |
|||||
土居川 やがて御陵通りを西に進んだ街道は旧堺市街に入ります。堺いは中世に栄え環濠を持った自治都市であったそうです。環濠は今では埋め立てられて痕跡が有りませんが、南宗寺南側の土居川は環濠の跡と言われています。 私個人の感想では中世以前の熊野街道は大仙陵から石津神社経由?大鳥神社方面に道が有ったのではないか?と思います。 |
|||||
↓ | |||||
歴史の道案内板 山ノ口橋の横には堺市が熊野街道の所在ルートを案内板にしてくれています。堺は古くから栄えた街だけに歴史好きには見所の多い(多すぎて困るほど)街である。山ノ口橋辺りは紀州街道との分枝地点でもあります。 |
|||||
↓ | |||||
老松町辺りの風情 やがて街道は旧堺市街を離れ南下する。この辺りは古い民家が残っていて懐かしい感覚がよみがえります。 |
|||||
↓ | |||||
石津神社 最古の戎神社で有るそうです。大昔はこの辺りまで海岸線で有ったのでしょう。 大阪の高津神社・住吉大社、等と並ぶ古い神社のようです。 |
|||||
↓ | |||||
石津神社(楠木) 社稷には大きな楠が有りました。他にも堺市指定の保存樹木が数本有るようでした。 この辺りも街の中だけに、大きな木があるとそこだけオアシスのような感じがします。 |
|||||
↓ | |||||
大鳥神社 街道はやがて和泉の国一ノ宮 大鳥神社 に至る。 社稷は神々しいまでに木々が美しい。 熊野街道はゆるゆると和泉の国を南下していく。 |
一つ前の @八軒屋〜住吉大社 まで | 一つ次の B大鳥大社〜泉井上神社 まで |