熊野街道散歩 @(渡邊之津〜住吉大社)

 紀伊半島は誠に山深く、緑濃く、日ノ本国における最大の半島であり、熊野はその中心でありつづけた。古から人々の信仰を集め、その霊験もあらたかであってのことか、平安初期(西暦859年)には朝廷は熊野速玉と熊野坐神に従二位の階位を送ったそうだ。 熊野御幸と云われる皇族による熊野詣は(西暦907年)宇多上皇に始まり(西暦1281年)亀山上皇をもって終焉した。 歴代皇族では最高33回も熊野詣を行った後白河上皇を筆頭に熊野詣は隆盛を極めたようである。皇族の熊野詣が途絶えた後には庶民がそれに代わり熊野詣に参加しその様子を(蟻の熊野詣)と例えたようだ。 大坂より熊野至る道には熊野権現の御子神である王子が百個所近く置かれていたので、人々は熊野へ向かいつつ王子をお参りしながら旅を続けたのだろう。
遅ればせながら今年からぼちぼちとこの路を訪ね歩こうと思う、今では熊野街道は国道の一部に取り入れられたり新しい街道に取って変わられたりしているが、往年の残り香が感じる事が出来れば幸いである。

熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房  熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 を参考に訪問しました。
 06/5/20 ルート





渡邊之津

都から船に乗って淀川を下った熊野詣の一行は大川(淀川)の渡辺之津(窪津)に到着した。

ちょうど写真のあたりが(天満橋)渡辺之津付近であったそうな。

大川は一説によると仁徳天皇の治世に人が堀割り、豊臣秀吉の時代に大幅に河川が広げられた人工河川であるそうで、いつの時代も政治家は治水・治山にはがんばるものだと感じる。江戸時代には八軒屋浜と呼ばれ、三十石船が往来していたそうです。

八軒屋船着場跡の碑

渡辺之津(窪津)は江戸時代には八軒屋浜と呼ばれ、三十石船が往来していたとのこと、昆布処 永田屋 の前には(八軒屋船着場跡の碑)がある。

熊野詣が隆盛を極めた頃よりはるか後世の江戸時代には三十石船は京を夜でて翌朝には大坂 に着いていたそうです。

坐摩神社行宮(窪津王子址)

(八軒屋船着場跡の碑)から西へ少し進むと第一王子である窪津王子を祭っていた
坐摩神社行宮がある、ビルの谷間にほんの少し残された緑の空間ですがほっとさせてくれます。

神功皇后が足を置いた石 等があった、上町台地沿いは神功皇后関連の謂れが多いように思う。

窪津王子はこの辺りにあったのでしょうか。
坂口王子

朝日神明社跡(坂口王子跡)
南大江公園のある場所にはかつて朝日神明神社が祭られていた。今は此花区春日出中に移座している、源平合戦の頃、この場所で源義経と梶原景時が船の櫓のつけ方で言い争いをしたそうだ。
今はこの場所に少し南に有ったとされる狸坂大明神が鎮座している。
今は大都会の真ん中ですが、昔は葦が生い茂り狸が徘徊するような所だったのでしょうか?
松屋町筋

南大江公園からふと西側を眺めると松屋町筋が見えます。
大阪では玩具の問屋さんが軒を連ねる道路です、何かの本で読んだ記憶に頼ると、太古の大阪湾は現在の松屋町筋辺が渚線であったとの事。
写真の信号待ちしている車の辺りが、波打際で有ったのでしょうか?

榎木大明神
朝日神明社跡を南東に進み中央区安堂寺町3丁目の辺りには樹齢600年と云われる榎「一説には槐(えんじゅ)との事」がある。
熊野街道の一里塚として榎が植えられていたそうで、この辺りに坂口王子が有ったとの説もあるようです。いずれにせよ都市化されたこの場所にこのような巨樹を保存できるのは並大抵の事ではなかったはずであり、 町の結束力に脱帽でした。古い民家が残っていたりする すてき な街です。
えんじゅ近くに残る古い民家。
戦前の建築でしょうか?
窓の桟が木製でずいぶん古いもののようでした。古い民家の保存に詳しい方が居ればご教授お願いいたします。
この辺りは第二次世界大戦の空襲時に火災が止まった故の記載が榎大明神に
有りました
町の結束が良く、当時の皆さんが必死で防火にガンバッタンでしょう。
上汐町

上汐町に残る古い民家、この辺りは戦災を免れたようで写真のようなすばらしい民家が残っています、懐かしい路地があったり、古くからある空堀商店街が元気一杯に営業していたりする、昔懐かしい街です。
懐かしい雰囲気が残る
路地。

銀山寺西の熊野街道?コース地図

源聖寺坂
@坂のふもとに源聖寺が有ることから、この名が付いた。
銀山寺西の熊野街道跡?
C寺の西側には古い路地が有りました、この場所は上町台地の稜線の西端の様な場所で、もしこの場所に街道があったとしたならば、当時の旅人は 茅の海に落ちる美しい夕日を眺めたりしながら旅をしていたのだろうと想像できました。
北川 央(ひろし)氏の 著作 おおさか図像学 の 本の中に、かつて御祓筋付近の道が真直ぐに南下して上町台地の西辺の崖上を通過していたのでは無いか?との記述があり、興味深く拝見しそのルートを訪ねて見ました。
ISBN4-88591-956-8 
Aこの辺りの上町台地の西側は急峻な崖になっています。松屋町筋側から東進する場合は短距離の間に坂道を駆け上がる路がおおいのです。
B源聖寺坂を東進して最初の階段を上った辺りに赤い矢印方向(南方向)に狭い路地が残されてあった。
北方向には家が建ち並んでいるので路は存在しないのですが、路が有った様な感じがします。また有るとすればちょうど生魂神社辺りを通過するような場所でした。
路は台地の稜線から少し下った場所にあたり、高津神社・生魂神社、の崖縁沿いにあたり現場に行ってみると、すごく説得力 のあるお話です。
郡戸王子:(こうとおうじ)は、熊野古道九十九王子の3番目。現在消滅。高津宮神社(大阪市中央区高津1-1-29)が跡地とされているが確証はない。










出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上野王子址:上野王子(うえのおうじ)は、九十九王子の4番目。現在消滅。大阪市天王寺区上之宮町4にある上之宮台ハイツの入り口軒下に「上宮跡」の石碑があり、ここが跡地とされているが、確証は無い。現在は、大江神社(大阪市天王寺区夕陽丘町5-40)に合祀されている。 昔、四天王寺を守る「四天王寺七社」の上之宮神社として、鎮座していた。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
四天王寺南大門
四天王寺は聖徳太子が開基した古い古い寺です。
いまだに 老若男女 に信仰が厚く参拝者が絶えません。
境内には熊野遥拝石があり、昔の熊野詣の人達は熊野権現に向かい礼拝していたのでしょう。
大祭の日の参道は参拝の
人でごったかえしています。
清水の井戸
四天王寺の南大門を出てしばらく歩くと、清水の井戸に行き当たります。
その昔は自噴していたそうですが、戦後地下水のくみ上げにより止まったそうです。現在はポンプアップしいました。町の人々に大事にされているようでした。
どうやら熊野街道から少し東側の庚申街道にずれてきていたようです。ガイドブックよると谷町筋を熊野街道とされているものもあり・・まっいいか。
庚申街道
あまりこだわらずにてくてく歩いていると法界を示すお地蔵さんが有りました。
表側には安政四年丁未九月 法界 千人講 と彫られていました。


裏は風化が激しく読めませんでした、後日図書館で調べたら、(大阪の街道と道標 武藤善一郎氏著作 ISBN4-88325-203-5)この道は庚申街道との記載がありました。ちなみにお地蔵さんの裏面には みぎかうや と彫られているそうです。
阿倍寺跡

近鉄阿倍野橋を巻いて路は南下します。
近鉄阿倍野駅を少し南下した住宅地の中に阿部氏の氏寺で有ったと云うわれる阿部寺跡推定地がありました。住宅地の中にひっそりと小さな社があり説明板が設えてありました。下町の住宅地の中に ぽつねん と云う感じで存在していました、近くでは近所の子供達が(鬼ごっこ)に興じたりしています、時間が止まってしまったような感覚になる場所でした。礎石は今では西成区の天下茶屋公園にあるそうです。
安倍晴明神社
阿倍野筋の阪堺線に沿っていた街道は松虫通りから昔の趣を残す旧街道に入ります。
陰陽師 安倍晴明 の生誕地とされる。葛乃葉子別れ伝説で有名な葛葉神社と係わりが深い。
阿倍清明は近頃陰陽師
ブームでブレイクしています
阿部王子神社

阿倍王子神社は大阪府内で唯一の現業する王子社との事。由緒書
近所には古い町並みが
残り、石畳を敷いた路地が
有りました。
万代池
阪堺線沿いに南下すると 万代池 が有ります。
万代池は上町台地の窪地をせき止めた池とか、古墳の残骸との説も有ります、上町台地には古墳が多く存在していたらしいのですが、その多くは築城・新田開発・宅地開発、の爲に破壊された見たいです。
経塚の碑。経塚は古墳の
残骸で有った可能性がある
そうです。
帝塚山4丁目駅
高級住宅地の中を阪堺線が走ります。
云わいる ちんちん電車 でのんびりと市街地を走ります。

超ローカル駅です。
春の小春日和の午後、ええ
臭いをさせた おっちゃん が
ちゃりんこで踏み切りを渡って
行きます。
熊野街道沿いの自転車屋さん
帝塚山を南下すると古い町並みが続きます。
すると 古い 自転車屋さん に出会いました。


薬の看板か?と思いましたが
鍵の看板でした。自転車屋さん
ですからそりゃそうだわ。
池田屋(住之江味噌)
池田屋さんは創業400年近い老舗です。かつては清酒業で有ったのが、明治後 住之江味噌 を作り始めたそうです。この四つ角は 住吉街道 との交差地点で古い趣のある民家がたくさん残っています。
ここの味噌がご飯に乗せて食べると格別に旨いとの事。訪問時は店がお休みで買えませんでした。
で 後日池田屋本舗さんの営業日に再訪問しました。
ゴマが効いて大変おいしい味噌でした。
池田屋さんの角を西に進むと
住吉大社の東門に行き当たり
ます。門前では近くのおばちゃんがおしゃべりを楽しんでいます。
子供達がその前で楽しく鬼ごっこをしていました、いつまでも有って欲しい風景です。
浅沢神社・大歳社
浅沢小野は太古、 かきつばた の名所で有った。多くの歌が残っている。
大歳神社は細江川を渡った南側にある、掛け銭の集金に霊験あらたかな神と云われる。
細江川、現在はトレンチに囲
囲われた状態の川。

上流部は高度処理水を流す
都会のオアシスです。

古の熊野街道はかきつばたの香りを嗅ぎながら、ゆるゆると 遠里小野 辺りへ南下していたのでしょう。



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