青玉神社の大スギ群

 兵庫県の中北部、かつての呼び名では播磨・但馬・丹波、の国境に青玉神社がある、いつの頃からあるのかはっきりしないくらい昔から祀られて居る神社で天目一箇神を祀っている。
掲示板の御由緒によると初めは三国岳に鍛冶屋の神として鎮座していたものを、やがて遷座したとの事である。
                                       09/5/27   MAP


国道427号線の「道の駅かみ」のちょうど正面に青玉神社はある。
社叢は杉の大木が群生していて、聖域独特の空気に包まれています。
青玉神社の大スギは県指定文化財になっていて、掲示板に説明が記されている。
樹齢7−800年の「掲示板」オオスギ群の間を参道がまっすぐ進んでいる、整然と並んだ木々は人工的に植林されたのでしょう。
ここは在郷の人々にとって古くから非常に重要な場所で、聖地として幾重にも作りこんで行く意図があったのでしょね。



社殿の前には山の高いとろろから引いた水路と池があった。
清浄な空間に綺麗な流れが美しい。

ここの祭神は天目一箇神、金属加工(鍛冶)にかかわる人々が祀る神であるとの事、自分の妄想を広げると↓・・・三国岳周辺部はかつて鉄を得る為に「たたらが」あったか「かんな流し」をした場所ではなかろうか?
とここまで妄想で考えて見たけれど、気になって調べてみたら、この辺りは生野鉱山から続く銅鋼床があって銅山が営まれていた事は有るけども、産鉄が行われた雰囲気が無さそうです。

ここから南の妙見山では長らく銅鉱山が営まれていて、鍛冶屋と言う地名も鉱山の記録も残っています。

また日本でも最古級の梵鐘鋳造工房跡(多可寺遺跡)も発見されていて、非常に古い時代から産銅が営まれて居た事は確かなようです。

そこで、もともと杉原川の下流にあった鉱山村から分村する時に祭神を分祀する事は良くあることなので、分祀された神社なのかと考えたのですが加美町誌の青玉神社の項に・・・

[神社調書]一説に此社を式の天目一箇神社なりと云
天戸間見命と云ふは天目一箇神の一名にして 其青玉と云ふは命神木に触れ玉ひて一眼を損じて青色となりしかば青玉と称へ
又社の旧跡と称する三国嶽播丹但国境字鉄碪という地有りて命の常に鍛冶の業を執り給ひし処かと伝う・・・
との記載を発見して謎が膨らみました。

神社にある掲示板にも元山上にあった神を下ろして来た旨の説明が有りましたが、町誌にある地名字鉄碪
から暗示されるのは金床でかつて山上で産鉄か産銅の「炉」があったのでは無かろうか?炉の近くには洗浄用の水が必要なので池(掲示板の御手洗池)も用意されていただろう。

ただ僕の中で繋がらないのが、ここ加美は相当な昔から杉原紙の産地として有名でその歴史は記録に現れるレベルで8−9世紀にまで遡る事で、製紙集団と鉱山師との関係がわからないのです。
空想するに産鉄・産銅には多数の人員が必要であったので、その中に製紙技術も内包されていたのでしょうか?かつての産鉄・産銅の盛んな処と製紙の盛んな処は割合符号しているような気がしますね。



で・・暇に任せて図書館で地誌を閲覧していたら面白い記述を見つけてしまいました。

一文を以って推定することは危険な事でしょうが、妄想モードで考えるに
はどうよ。。


加美町誌の播磨鑑の写しとして下記の記述があります。

           播磨鑑は宝暦12(1762)に成立

・・・・・・・・・・印南郡生石村の伝説・・・・・・・・・・・・・・・「播磨鑑」

生石村「石ノ宝殿ノ麓ニ有 万葉集ニ生石真人歌石宝殿社記二載之」

往昔 聖徳太子の御妹此処に暫居玉ひしか紙をすき始里人に教え玉う杉原紙は押子(生石)より出ると云伝ふ(ハリマスギハラノ根本ナルカ)

押兒・・・・・・・・・・・・・詠人しらず

爰とても神代の昔いとさやけ
                 名残おしこの山のいわや

昔生石で紙を漉いた人が聖徳太子の妹であったかどうかは疑わしいが、その頃に誰かが暫くの間紙を漉いたという事実があってこうした伝説が遺っているのである。そしてその地の人は生石が杉原紙の発祥の地であると言伝えているという。

その地で初めて紙を漉いた人は、その南の加児水門(高砂湊)に上陸した朝鮮からの渡来人であったのであろう。別項で述べた播磨国紙の優位性がそれに因るものと思われる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、

加古川上流の杉原川において8-9世紀にすでに製紙が行われていて、税として納められていた事は良く知られていますが、そのルーツが生石にあるとの記述は驚きです。

生石には日本三奇の「石の宝殿」と言うなぞに満ちた石造物があります。これは凝灰岩の山を削りだして500トンも有る構造物を作りこんだタマゲタ代物で、これを作りこむには相当な技術と加工機としての青銅器か鉄器が絶対に必要であったはずで、それをどこから調達していたのでしょうか??またそれだけではなくてこの岩山あたりで作られた石造物「石棺」が遠く大和や近江で利用されていて「大王の石」と呼ばれていましたし、生石周辺から今もって切り出される石は「竜山石」として重宝されているのです。

ひょっとすると太古において高砂へ上陸した(技術)産鉄集団は色々な技術屋を内在させて移動していたのかも知れません、最初に入植した地点から移動・分村していく過程においてその土地・土地に適応した集団が生業を起し集落を発展させていったのでしょうか?

最初の高砂周辺には凝灰岩の良い石材が得られる事から石工集団が残り、やがて大和にまで輸出できうる産業になった。あるもの達は加古川を遡り多可「西脇市」辺りで銅鉱脈を見つけ産銅を始め自分たちの神「天目一箇神」を祀り集落を発展させた、またこの場所では資源が豊富にあり永年にわたり産銅を営んだので地名に「鍛冶屋」の名がついた。

杉原川を遡った播・但・丹国境辺りでは産鉄・産銅「この辺りがもやもやします・産鉄の雰囲気があまり感じられない」・製紙ができるので、当初、多可「西脇市含む」の連中が出向いて産鉄・産銅・製紙を行っていたが、分村するベーと言う事になり、自分たちの神を分祀して最重要施設である「炉」のある三国岳の上に「天目一箇神」を祀った。

やがて、三国岳での産鉄・産銅は資源枯渇などの理由により序々に廃れては行ったが、製紙は生業としてぼつぼつと存在していて、山上に神事を行いに行くのも大儀な事から川の氾濫原からやや高い山下へ遷座したのではないか?
※鳥羽では長らく鉱山が営まれていたようで、三国岳の鉱山は露頭鉱脈で露天堀だったのかな?

時が流れ源頼朝の開幕に伴い杉原紙のブランド人気が高まりその需要の増加と共に集落の人口は増加の一途をたどっていった。その頃には産鉄・産銅、の連中は撤退して居なくて、集落の構成人員はほぼ製紙屋で、杉原紙のブランド人気もあって経済力も得ていたので、立派な社殿を建てて荘厳な空間を作り出して自分たちの神を祀りたかったのでしょう。またその頃には土木技術も向上して治水能力も上がり河原の利用も可能になったので、最初に山下に置いた「天目一箇神」からはやや低い位置に立派な拝殿を置いて参道(神の通り道であったかも知れませんが)には杉を植えて、立派な神社を「えへんえへん」で作りこんだのではないでしょうか?

ここからさほど離れていない岩座神の棚田「棚田百選に選ばれている」の成立が約700年前と言われていて、青玉神社参道の杉の樹齢と符号する事はあながち関連性が無いとは言えないでしょう。

最初、山上から神を下ろした場所に植えたのが「夫婦杉」で後に参道に植えた杉が現在に残っていたとしたら面白いな。


妄想900パーセントながら入植した連中の子孫が思いを込めて最初に植林した木がこの夫婦スギや参道のスギであれば面白いな。





目通り10メータあろうかと言うスギが7メーター程上で二股に分かれている、昔は二股の木には霊力が宿るとされいて、ここでも例に漏れず御神木になっていました。

高さ45メーター
樹齢は1000年程



巨樹につきものの「圧倒的存在感」のオーラが漂う木でした。
根元から見上げると風に揺られた木が「みしっ」と鳴きます。
木の鼓動のような感じがします。
1000年生きた夫婦スギの表皮は石化している様な印象を受けました。

この場所は山間部のあまり有名でもない神社なのですが、スギの群生が何ともいえない重厚で荘厳な空気を作り出していて、その意味では山上から遷座した頃の住民の意図した
・・これは僕の妄想でした・・
空間が作り出されていて、ただならぬ聖地である事が体で感じる事ができました。


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