日本三奇「石の宝殿」

古くから 奇 なるものとして有名な石の御神体を持つ生石神社(おうしこじんじゃ)へぶらぶらと訪問した。
拝殿前で配布されている「生石神社略記」には、天津神の命を受けた大穴牟遅(おおあなむら)と少毘古那(すくなひこな)の二神が国土を鎮(しず)めるためにこの石の宮殿を造ったのだと書かれていた。
2008年1月12.13日に詳しい調査がされ同年6月21日に報告会が開かれる、謎の多い巨石の秘密が解明されるといいですね。 08/5/28


鳥居をくぐって長い長い階段を登ります。 拝殿前ではまだ石の宝殿の全貌は見えては居ません、平日の訪問でありましたが数人の人が参拝に訪れていました。
さていよいよ対面です、日本三奇石乃寶殿との看板が期待を高めてくれます、ここで稲穂料¥100を納めて「生石神社略記」を頂きます、奥の御神体からは独特の空気が流れてきます。 小さな社と云うか?遥拝所の奥に御神体は鎮座されていました。
でかい、でかすぎる・・・高さ約五・七メートル、幅約六・四メートル、奥行き七・二メートルで、重さは推定五百トン。岩盤で出来た山の三方をくり抜いて造られた石造物であることがわかる。上部には木が茂り、下部は池に浮き上がる様な加工が施されていて、まるで石が浮いたように見えることから「浮き石」の名がある。
でかすぎてカメラには納まらない、これは広角で撮影した二枚を合成しました。
写真を撮っていると・・大きな拍手の音が響いてきました、裏へ廻ると40代のおじさんが熱心に祈っていました、その祈り方ですが宝殿に対して祈るのではなく、宝殿の家型の屋根(矢印にも見える)部分の下側に座り込み矢印が指し示す山の中心部へ向かいそれこそ五体倒地でもするがごとくの様子で、地面に頭を擦るように祈るのです、あまりの熱心さにその場に居る事が憚られ一旦外に出たほどです。 ちょうど写真の屋根型の下に潜り込むような座り方で左の木に架けられた御幣の中心部に対して二拍手・二礼した後に頭を地面に擦りつける様な拝礼でした。その祈りを見ていて思った事は、この岩盤で出来あがった山そのものが御神体で、宝殿は祈念者の念をその躯体で増幅して矢印状の部分から御神体(山の中心)に念を送り届けるための装置かも知れないな?と感じました。
宝殿がある山そのものが一つの岩盤で出来ていて、頂上部へ階段が刻まれていた。この山そのものが一つの岩盤であることが理解できる。 山頂に向かう階段から石の宝殿の全体像が眺める事が出来る、ここから見ると山から削り出した様子が伺える、それにしても何のためにこれを造ったのだろうか?
山頂には小さな東屋と大正天皇が行幸された事を示す記念碑が建てられていた。 山頂からは現在も稼動する石切場と高砂の町と播磨灘が望まれる。太古においては石切は先端技術であったでしょう、ここから切り出された石材はかつては海であった麓から巨大古墳の建材として遥か畿内まで運ばれた事でしょう。
現在もこの地方は重工業地帯であり、一部上場企業の主要工場がひしめいています、遥か太古より工人達を引き付ける力を持つ土地なのかも知れませんね。



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