へちょへちょ。おとなの遠足 


その1 うれしはずかし高野山


 高野山・・・いわずと知れた弘法大師の開いた聖地にして、世界遺産の地である。
別に世界遺産になったからと云って、観光客が押し寄せていうる訳では無く、ユネスコが存在する遥か彼方の昔より、世の老若男女は一生に一度はお参りしたいと夢あこがれた聖地である。

 僕の祖母(もう30年近く前に仏になった)も、これまたもう仏になった父に 高野山 へ連れて行ってもらった時には、ずいぶんとはしゃいで喜んでおりましたのが子供心にも珍しくもあり、いつまでも覚えていました。現在でも、年寄は 高野山 へ行くと喜んではしゃぐのか?・・この謎を解く為にも 高野山 へ行かねばならぬだろう・・・

 と云うわけで、今回はかつての巡礼道をトレースするように走る、巡礼列車南海高野線に乗って、郎党を引き連れ、桜満開の平地を後に、天空の宗教都市へと向かった。 08/4/5


特急 こうや :始めて高野線の特急 こうや に乗りました、レトロぽくていい感じの車両ですね。八時半に難波駅をでました。

この特急に乗る人はほぼ100l高野山へ向かうようです、車内では地図を広げて奥の院の位地を確認する親子が居たり、同行二人の文字が墨書された帷子を着込んだお礼参りの遍路さんが居たりする、一種独特の空間を作り出しています、日本で唯一の巡礼列車と言えるでしょう。
新今宮や堺東に止まりながら高野山へ向かう、橋本を過ぎると車窓にはのんびりした風景が広がります。

列車はかつての巡礼道(高野街道)をトレースして進む、昔の巡礼者が徒歩で何日もかけて歩いた道程を一時間と少々で走破する。
ケーブルカー:極楽橋からはケーブルカーが接続されています。急勾配の坂道を一気に駆け上がる。

徒歩で歩けば数時間はかかるであろう高低差を物の五分で登りきる、土曜の朝一番の特急に連絡する便ですが、八割程度の席が埋っています、まさに蟻の熊野詣ならぬ蟻の高野詣であり、現在の巡礼道ですね。
高野山駅:高野山は2004年7月には世界文化遺産に登録され日本のみならず世界的な観光地としても有名です。

巡礼道が世界遺産になっているにのは、フランス〜スペインにまたがるサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼道と紀伊山地の霊場と参詣道です。

そう云う意味では、高野山の参詣道・熊野街道・は世界に数例しかない道の世界遺産であるといえるでしょう。
参道へ(わき道):バス停奥の院前から少し中の橋へ戻り、そこから参道へ入ります。バス停から直接御廟堂へ向かうといにしえの参道をパスする形になるので、少し戻って中の橋辺りから奥の参道へ入ります。 奥ノ院参道:いにしえの参道には人知れず土に返ろうとする供養塔が沢山ありました、苔と日の光がその塔をいだくように包んでいました。
伊達政宗墓所:奥ノ院へいたる参道には歴史に残る人物の一大廟所となっています。

有名人の供養塔を探すだけでも一日かかるでしょう。
御廟橋:この橋の先に御廟があります。御廟橋から奥は撮影禁止区域となっています。御廟の前では熱心に経を唱える老婆がいたり、先達に引き連れられた団体さんが真言を唱えながら法螺貝を大音声で鳴らしていたりする、一種独特の空間が存在していました。

日毎の祈りが「け」とすれば、祈りにおける「はれ」の空間なのでしょう、白装束に身を固めた集団や、金襴の袈裟をかけて熱心に金をたたいて声明を響かせる老婆達は少しはにかみ乍も舞台に立った子供の様に熱心に祈っています。

この空間を高野山に関わったすべての人々が1000年間以上・営々と保ってきた事が人智を超えた偉業といえるでしょう。
御朱印を頂く:でいつものように御朱印を頂きました。高野山は参拝者も生半可な人数ではなくて、ひっきり無しに人が訪れていました。

奥ノ院の独特の空気は年寄は元より、若年をも取り込む魅力があるようです、1000年間培われた祈りの空間は、時代の流れなど意に介さずものすごい存在感であり続けるのでしょう。

おそらく世界遺産になろうがなるまいが、この力は人間世界の微細な思惑などとは違う理屈で存在するのでしょうね。
参道前の名物:帰りは新しい参道を通って、中の橋駐車場へと向かいます。中の橋駐車場前には焼餅をうる店がありましたので、お土産を買いました。食堂なども軒を連ねていましたので、精進定食風の物を食べました。
懐かしい絵本:昼食後お土産を見ていると やや 懐かしい感じの絵本が在るではないですか。

おしゃかさま とか こうぼうだいしさま とか 石堂丸 とか・・なんだか紙芝居風の説話絵本が沢山売られていました。
金剛峯寺:正門は金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っているそうです。 右端のほうに小さなくぐり戸があり一般の僧侶が使用しています。昔はこの門を正面から出入りできるのは天皇・皇族、高野山の重職だけであったようです。
金剛峯寺:明治元年、山内の中心的寺院であった青巖寺、興山寺を合併して「金剛峯寺」とし高野山真言宗の総本山と位置づけたものです。主殿は端整な味わいのある東西30間、南北35間の大建築となっています。
大広間を狩野探幽、柳の間を狩野探斉の障屏画が飾っています。
玄関には漆塗りの立派な籠が置いてありました、高貴な人が使用したもののようです。

ほの暗い玄関に漆の赤が浮かび上がり美しい。
播龍庭:石庭としてはわが国最大の庭、二匹の龍を巨石で表しているそうです、静まりかえった空間に見学者の廊下を踏む足音が響きます。
何処からか鶯の声が響いてきます、まだ鳴き慣れして居なくてたどたどしい鳴き声です・・外人さんが熱心に庭を見つめていました。
新別館の169畳敷の大広間でお茶と茶菓子が振舞われます。訪問日は八十八箇所巡礼と思われる団体さんがいましたので、説教を聴くことが出来ました。

台所:庫裏の裏側には大きな台所があります、屋根が高くて大きな湯釜や竃が並んでいます。
年寄りは少しくたびれたので返る事にしました、奥ノ院御廟では少しはしゃいだようです、これで長年の謎であった「年寄りは高野山で喜ぶか?」の回答が得られました。 山路を下る車窓からは里山の苫を焼く煙がたなびく様が見てとれます。
九度山辺りまで下ると桜が満開でした、対向列車の時間待ちの間列車に乗る人々は山上では見る事が出来なかった 桜 を堪能していました。 土産の数々・・大師陀羅尼錠・・くるみ餅・・みろく石・・遍路Tシャツ。



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