上町台地の坂道N〜22     天王寺七坂



天王寺は歴史の重層する町です、古代の寺院から戦国期の激戦地、中世 日想観修行を実践した歌人や、江戸期の風流を楽しんだ料亭、近代文学の舞台になった坂などが沢山ある。その中に学生がスキップして練習をする場所やラブホ街が混沌と存在している町です、そんな町を訪ねました。 ルート地図 07/4/28
阪市土木技術協会・大坂都市協会、発行の『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』
に記載された上町台地の坂道に紹介された坂を基本に散策しています。









@真言坂:明治の廃仏毀釈まで生国玉神社周辺に十坊があった、内北側にあった六坊はすべて真言宗であった事から、この坂を「真言坂」と呼ばれたそうです。今ではこの近辺はホテル街で喧騒としていますが、この坂と境内だけは別世界のように落ち着いた風情を醸しています。 八軒屋浜の高灯籠:生国玉神社北門前の高灯籠はかつては八軒屋船着場にあったものであるとの事。京都からの玄関口にあたる八軒屋浜にあった高灯籠だけにおおきくて立派なものです。
A源聖寺坂:坂の口に源聖寺があり坂名の因みになった、石畳がひかれ風格のある坂です。この坂を着物姿のご夫人が歩くと絵になるのでしょうが、PSをしながら家へ帰る子供が歩いていました。
後記・07/7/14 本日 車にて 源聖寺坂の前を通りかかると・ななな・なんと????石畳が無くなりアスファルトが敷かれていました・・一時的な物でしょうか?この坂にアスファルトは無いだろう?
後記・07/10/末まで工事のための一時的措置だそうで、また石畳が復活するそうで安心しました。
源聖寺坂:坂は途中から急激に勾配をあげて階段となっています、寺の白壁と石畳が調和していい感じの散歩路です。ここを曲がると何があるのだろう?と思えてしまう良い塩梅のカーブを描いて階段を上がります。
学園坂:松屋町筋から谷町筋へ連絡する坂、寺町1丁目と2丁目の境を東へ上がる、昭和12年都市計画道路として新設された道との事ですが、今では学園坂と云う名が定着しています。 学園坂:坂は松屋町筋から大阪夕陽丘学園の南側をカーブしながらゆったりと登る。
B口縄坂:織田作之助の(木の都)に登場した坂、坂上には織田作之助の文学碑がある、風情の坂で都会の喧騒から離れ静かな時間が流れる不思議な空間でした。撮影日07/4/28から二ヶ月ほど経ったある雨の日、車で通りかかると坂の途中の寺で法事でもあったのでしょうか?喪服の妙齢のご婦人が和傘を差してこの坂を下られていましたが、なんともいい雰囲気でした。 口縄坂:台地上から眺めます、いい塩梅の階段と石垣が絵になる風景を楽しませてくれます。この辺りから眺める夕日はこんにちでも美しいのですが、海が迫っていた中世以前はさぞかし美しい夕日が沈んだ事でしょうね。。
藤原家隆墓:その夕日に魅せられた藤原家隆は79歳の時に病になり、この地に庵を結び夕日を眺めつつ静かにこの世を去った。契りあればなにはの里にやどりきて浪のいりひをおがみけるかな と詠ったそうです。 愛染堂多宝塔:境内にある多宝塔は豊臣秀吉が寄進した、国指定の重要文化財となっています。境内は大阪市内とは思えないほど静かで、ゆったりした時間が流れていました。
C愛染坂:愛染堂は本尊が愛染明王のため名付けられた、この坂は愛染堂へと至る。クラブ活動の青年達がこの坂を利用して厳しい練習をいていました。 愛染坂:クラブの生徒たちが坂をスキップしながら上り下りして練習をしていました、かなり勾配のきつい坂なのできつそうでしたな。訪問日4/28はそれほど暑くはなかったのですが、学生たちは汗をぽたぽた流してスキップしていました。
D清水坂:大阪星光学院のある辺りに、料亭浮瀬(うかせむ)がありました。 芭蕉や蕪村・貞柳ら多くの文人墨客が訪れ、句会を開いたりしました。浮瀬とは鮑の貝の穴をふさいで作られた酒盃で七合半の酒が入ったと云われています。その料亭浮瀬があった辺りに清水坂があります。 清水坂:その 料亭浮瀬、ずいぶん流行ったらしいですね、京都は清水に江戸は浅草に、どちらも貝杯を売り物に同じような嗜好を提供する料亭ができていたそうです。
伶人町:四天王寺では天平時代から明治維新までの永きにわたり雅楽が守られてきたそうです。
ここ伶人町はその雅楽者達(舞人、楽人)が住み暮らした町であるとの事、そんな事を思いながら歩くとふと笙(しょう)の音が響いてくるようです。
清水坂を下った所に南北に走る路地があります、くねくねと曲がりながら古い町並を抜けて清水寺の西を通過して天神坂・安居天神・逢坂へ進む・・古くからの街道であろう、清水寺への方向へ古い道標があり たき道 と刻まれています、古の旅人はこの道標を頼りに歩を進めた事でしょう。
清水寺:寛永17年(1640年)に延海阿闍梨(えんかいあじゃり)により中興された。延海は観世音菩薩の御告げを受けて、京都の清水寺を模した舞台造の本堂を建立し、本尊として京都の清水寺から迎えた千手観音像(聖徳太子作の伝承をもつ)を安置した。当寺の境内は北・西・南の三方が崖になっており、往時は大坂の街や大阪湾を見渡す眺望の地であった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


増井の清水:難波の街は水の便が悪く湧水が有難かったのでしょう、井戸は大切にされていました。増井の清水も天王寺七名水と一つと云われていました。 増井弁財天:昭和45年大阪市顕彰史跡に指定された増井の清水は、伶人町興禅寺の東側の増井弁財天の境内にある。昔は、上下2段の水溜場があり、上は武家などに、下は一般町人に汲ませたという。かっては酒を醸すのに適するということで合酒の清水ともいわれたが、元井戸は、戦災で崩れたのか跡形もなく、残っているのは下方の井戸である。 大阪市のページより
E天神坂:伶人町と逢阪一丁目との境界をなす坂です。安居神社へ通じる坂道なので天神坂と呼ばれています。安居神社には、少彦名命・菅原道真をまつっています。
この辺りは上町台地の崖下にあたり、水が湧き出す地点でした、天神坂付近では多くの湧水地がありました。現在では枯れてしまった所もありますが、ここ天神坂ではかつての湧水を再現しています。
神社では5/5に幸村まつりを盛大に執り行うそうです、境内のいたるところに六文銭を象ったのぼりがでていました。甲冑を着た人たちも参加してかなり盛大なイベントらしいのですが、来年は見学に行きましょう。
安居の清水:かんしづめの井戸と云われていました、安居天神の崖下にありますが訪問日は改修工事中で立ち入る事はできませんでした
真田幸村の墓:大阪の陣の時、真田幸村は家康の直ぐそばまで突入し 
あわや、との場面もあった見たいですね、その幸村さんこの場所で越前兵に急襲され、戦死した場所でもある。後年墓が作られました。
真田幸村は家康が嫌いだったようですね、とことん戦って潔く死んでいったようですが、なかなかしたたか者で兄弟を両陣営へ付けて 家 の存続を図っています。想像ですが家康の・・強いやつの尻尾になっておりながら、イエス・ノウをはっきり言わない癖に自分の利益を最大級に得ようとするような、小汚いやり方が大嫌いだったのではないでしょうか?(それも戦国の処世術よ。とか言われそうですが)
F逢坂:天王寺区松屋町筋終点、いわゆる合法ヶ辻から四天王寺西門に至る坂道である。逢坂は、逢坂の関になぞらえて呼んだものと、他説では聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせたと言われた「合法四会」に近いことにより合坂と名付けられたなどの諸説がある。その昔はかなりの急坂で通行が困難であったが、明治9年(1876年)茶臼山観音寺の住職静明が、人々の難渋を救おうと立ち上がり、坂道を切り下げ幅を広げた。大正時代に市電の開通により現代のように整備され、七坂の一つに数えられる面影がなくなった。
大阪市のホームページより転記。
四天王寺西門:四天王寺の西門の石鳥居は日本三大鳥居だそうですね、逢坂を登りきると四天王寺の甍が見えてきます、太古外国からの使節達はこの風景をみてどう思ったのでしょか?(なかなか都会やん?とか思ったのかな)



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