K心眼寺坂L真田公園の坂・旧真田山陸軍墓地


中世秀吉の築城した大阪城の惣構跡をたずねて散策します。
陸軍墓地があったりして中世から軍事と切っても切れない地縁をかんじた散歩となりました。
07/3/18
阪市土木技術協会・大坂都市協会、発行の『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』
に記載された上町台地の坂道に紹介された坂を基本に散策しています。

空堀町:空堀は秀吉時代の惣構の跡、平時は住民が生活する場所であり
有事には軍事前線になった事だろう。
空清町:この辺りから空堀町(北側)を見通すと、かつての堀跡である高低差が見て取れる。
善福寺:大坂夏の陣(1615)の戦死者を弔うため、鏡如庵があったが、明治期に廃庵となった。明治後期に善福寺が引き継いだそうだ。 どんどろ大師どんどろは古河藩主 土井利位が大坂城代に在任中(1834〜1837)の下屋敷内に弘法大師がお祀りしてあったので、土井殿大師がなまってどんどろ大師になったようであるとされる。土井殿は気さくなおじさんだったのかも知れませんね。どんどろ坂はこのどんどろ大師への参道にあたったことから俗称された。
『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』より
心眼寺坂(N→S):心眼寺は、大阪城出丸城跡に真田幸村父子の冥福を祈って白牟上人が創建されました。付近はその後、真田山と呼ばれています。 心眼寺坂(S→N):空堀辺りの低地からゆるゆるとカーブして上がる、寺が多いので優雅な感じのする堂々とした坂でした。
円珠庵昔から榎の霊木があり、大阪冬の陣のとき、真田幸村がこの土地に陣所を構え霊木に鎌を打ちつけ、鎌八幡大菩薩と称して祈念したところ、大いに戦勝をあげたと伝えられている。
釜八幡:元和の大坂攻めの時真田幸村はこの八幡宮に必勝を祈願したあと幹に力一杯鎌を叩き込んで武人の決意を表した。以来鎌を打ち込む風習が残り、鎌八幡と呼ばれて信仰されている。
悪縁を絶つ寺として有名。(絵馬等を撮影されると機材没収対応です)
三韓坂(E→W):太古外国の要人を迎えるための鴻臚館があったとされる、何時のころからか三韓坂と呼ばれるようになったとの事ですが、今・三韓坂と云っても知らない人の方が多いでしょうね。 三韓坂(W→E):太古 高津辺りに着いた船から外国の要人を連れてこの辺りを進んだのかも知れませんね。
真田山公園北の坂(E→W):かつてこの場所には騎兵第四聯隊があったが昭和7年に堺市金岡へ移転、跡地に真田山公園が整備されました。
昭和8年の地図にはこの坂(路)の記載が在るとのことです。
真田山公園北の坂(W→E):現在はスポーツ施設があって、練習試合でしょうか?学生たちが大勢この坂を往来していました。
真田幸村像真田山公園の北側に三光神社がある、三光神社は中風除の神さんとして有名ですが、真田のぬけ穴があってか、幸村の像が建立されています。
幸村さん軍配を振っておられますね、  「茶臼山にて、馬印をあげておる、家康の首を打てー」   とか言ってる姿でしょうか?
真田の抜け穴大阪城に通じていると云われた穴、さる歴史の会の散歩では、たぶん古墳の石室跡でしょうねーとか。

旧真田山陸軍墓地
真田幸村ゆかりの三光神社をぶらぶらと西に進むと?なんだか変な墓石群?集会場のような家に案内がしてあり、此処が陸軍の墓地である事を知りました。
時節柄、靖国問題なんかを見聞することが増えましたが、墓石と云うのはリアリズムの塊のようで、脳内の思考とは別の何者かを揺さぶられました。
旧陸軍真田山墓地5299基以上の墓石と納骨堂からなる。戦前はこの門前に衛兵が立っていたとの事。

日本に徴兵令が施行されるのは明治6年で、初期に於いては白米が食べられるので志願して兵隊になった人が多いと見聞した記憶があります。

現在でこそ食べれる事は当たり前のような世間になっていますが明治期において「軍隊と云うシステムに所属すると衣(医も含む)・食・住、がそろい生きて行け、社会的にも認知される」と云う事実は貧しい生活を強いられる階層の人々にとっては福音であったのかも知れません?
兵卒の墓標生前も整列したであろう姿のままで墓碑となる。私は、靖国神社に参詣した事がありませんが、護国神社には家が近い事もあり元旦のお参りに訪れる事があります。

神社に於いては英霊は柱としてお祀りされていて、神社は清浄である事を旨としている為か、そこに訪れた場合、英霊(戦死者)に対して抽象的な感じがしますが、それに対して墓碑群は非常なリアリティーでもって私に迫って来ました。

墓碑に刻まれた、生国・氏名・戦死場所・年齢、を見ていると死者の息遣いを感じるようでした。

墓碑:墓碑は生前の人生を語る、刻まれた文字・・陸軍歩兵等卒勲八等功七級 森本芳○郎之墓 明治27年5月26日南山攻撃際戦死・・ 大阪府中河内郡布施村大字向井57番屋敷。日露戦争の南山攻撃の際に戦死なされた方の墓碑のようです。この時乃木希典長男・勝典が戦死しています。ロシア軍のトーチカを十分に破壊せず歩兵の投入を実施、一日の戦死者が四千人台だった戦闘の犠牲となった兵士の墓のかも知れません。

日露戦争の南山攻撃や203高地の戦闘はその指揮の出来・不出来を含め、多くの記録が示すように多大な犠牲者の上に成功を収めた。

納骨堂納骨堂には43000柱が納められている。納骨堂の正面には桜が植えられいて桜の季節は大変に美しい。

2007/4/桜
陸軍墓地最古の墓:下田織之助は山口県の人で、明治庚午(3年)の秋大阪において兵学寮に入学、同年12月1日病死した享年25歳。

特定非営利活動法人
旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会
のホームページより転記しました。

風化が進む墓標:今にも崩れそうな墓標には鉄の輪が嵌められている物があった。墓碑の風化が進んでいます、遺族がおられる方の中には墓碑を新しくされている場合もあるようですが、古い墓は今にも割れそうなのを鉄製のたがでもってかろうじて崩壊を食い止められていました。

その姿は負傷してもなお戦い続ける戦士の姿と重なりました。
三光神社の散策中に偶然に旧真田山陸軍墓地に到りました。
此処は傷病戦死者を多く埋葬しているそうですが、一種独特の雰囲気が漂う空間であり、少し物悲しい場所で在りました。
現在日本では戦死した兵士(自衛隊員も含み)は靖国神社や護国神社に祀られそうですね。

此処のように官でもって墓碑を作ると云う様な形式で英霊を祀る事はもうないのでしょうが、墓碑は強烈なリアリズムでもって見る者を捕らえて離しません。

たとえばこう言ってくるようです・・私は大阪西区新町の商家の次男に生まれた、十八歳に陸軍歩兵になり二十の歳に砲兵に成り、翌年に大阪鎮台病院で死んだんだ。・・こんな感じで静かに語りかけてきます。

墓石群を眺めながら今現在の自分や社会が、どこからもたらされて来たのかをじっくりと考えて見るのも、いい事かも知れませんね。
木陰で眠る兵士達:日清戦争・台湾領有戦争 戦病没者兵士の墓は大きな木の木陰で永遠の眠りについていました。
詳しい事は・・・旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/

※リンクフリーとの事にてご好意に感謝します、連絡をしたいのですが掲示板・メールとも不明につきご無礼いたします。


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