Eどんどろ坂 F大阪医療センター南側の坂


 法円坂周辺は難波宮遺跡のある場所として有名ですが、豊臣時代に城が築かれてからは大名達の大阪屋敷が建ち並んでいたようですね。
その大名達に因んだ坂道が残っています、また、維新後は陸軍との係わりがあり法円坂を含めて大阪城周辺には戦争遺構も多く残る場所でした。07/3/10


阪市土木技術協会・大坂都市協会、発行の『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』
に記載された上町台地の坂道に紹介された坂を基本に散策しています。


どんどろ坂: 空堀町の交差点から大阪女学院へ至る坂をこう呼ぶ、坂を下りて南東方面へ小道を入ると、どんどろ大師が在る。
江戸期には大師めぐりが盛んでどんどろ坂はその大師めぐりの道であったそうです。
『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』より
旧町名継承碑:  明治五年に江戸期の北組の一部南組の一部を東雲(しののめ)町通1〜3丁目し、昭和54年の住居表示の実施にともない玉造町へと町名変更されたとの事。
どんどろ坂の途中に旧町名継承碑があり説明が刻まれていました。
大村益次郎碑:(村田蔵六)は文政七年(1824)周防に生まれる。
大阪に出て、適塾(緒方洪庵経営)に入る。
明治2年(1869)式部大輔に任ぜられ、近代陸軍兵制の確立に勤めた。
しかし不平士族の反感を買い、京都で襲われ、それがもとで亡くなった。

司馬遼太郎氏の花神の主人公となった、徹底したリアリストで在ったようで、戦略・戦闘行為に一切の希望と感情を添加しない人で、設計屋さんのようですね。

碑のある広大な敷地は、明治31年(1898)創設の歩兵第37連帯の跡地であるそうです。
大阪医療センター南側の坂:『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』には国立大阪病院となっています、現在は大阪医療センターとなっていますで勝手にタイトル変更しちゃいました。

かつては医療センターの南西隅あたりは現在の坂以上に急な坂道(落差)となっていたそうです。

この(落差)は現在の医療センターの西の境界に沿って北から南へと続いていて、これが豊臣時代の三の丸の堀のラインであるという「角川地名辞典」。


『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』より
三の丸堀跡:確かに医療センターの西の道際は急な段差が現在も残る、写真に見られるような3メーター程の高低差が残る場所がある。

落差が大きいので現在でも、勾配のきつい階段でもって駆け上がる感じになっていた。
安国寺坂: 豊臣時代に安国寺恵瓊の屋敷があったので安国寺坂の名が付いたとされる。

恵瓊の挿話として、信長の短命政権を予言した事が有名です。毛利家の外交官として有能で、秀吉の出世の基点となった「備中高松攻・中国大返し」に於いては、信長の死を察知しながら秀吉との講和をまとめ、秀吉の天下統一戦への消極的応援者となったようですね。

秀吉の政権樹立後は取り立てられ僧でありながら大名となったが、関が原で西軍に付き六条河原で斬首される。

見方によっては、毛利家存続(関が原の後は喰えないほど領地は削られた)の為の人柱になったの知れませんね?



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