Cあいどり坂 Dほくちや坂


玉造から大阪城南方へかけての坂道を散歩する。
秀吉時代の大阪城の東側(猫間川)辺りから三の丸周辺の坂道を尋ねる、玉造稲荷辺りは高低差があり地形の変化に富んだ景色が楽しめる。07/3/10


阪市土木技術協会・大坂都市協会、発行の『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』
に記載された上町台地の坂道に紹介された坂を基本に散策しています。


あいどり坂(W→E)
[合鳥坂」とも書く、かつては見事な石畳路であったそうで、現在はインターロッキングブロックで綺麗に舗装されていました。
高低差と道幅があり見事な感じの坂でした。
あいどり坂(E→W)
この坂の名称は豊臣秀頼の側室「お愛」の父・青木半入の居宅があった為に「愛殿坂」がなまったと言う考えもあるとされる。
玉造稲荷神社垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったと記されています。玉造稲荷神社の御由緒より。

豊臣家奉納の鳥居:慶長8年(1603年)に秀頼公より奉納された物であり、大阪での石製鳥居としては、四天王寺正門の鳥居と共に古いといわれている。

玉造稲荷神社が豊臣時代に大坂城の守護神として祀られ、特に秀頼、淀君らの崇敬が厚かった。
ほくちや坂:写真の高層マンション辺りにあった伊勢屋と言う「火口商」がいた事に因んで付いた名との事。 難波宮朝堂院南門跡:前記難波宮の朝堂院の南門の跡があった場所にある掲示板、柱の跡は埋め戻されて保存されている。
太夫殿坂:福島左衛門太夫正則の屋敷があったとされる辺りにある坂。 難波宮跡:今は国の史跡となり公園となっている市民の憩いの場所で在るが、夜は極端に人口が減りデンジャラシーです。




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