A法円坂 Bかぎや坂
大阪城周辺は大阪(坂)の語源ににもなった様に坂の多い地形となっています。 法円坂の地名起源は大阪城の位置比定の論拠に及ぶ様であり、また大阪城は天下の名城の跡だけに歴史的遺構も多くあり、大阪の陣の悲劇の主役、細川ガラシャ婦人との謂れが残る井戸があったりします。 かつては大阪城は高い建物の代表であった事でしょうが、今日では高層マンションに追い抜かれ、少し、しょんぼりしているようでした。 07/3/10 |
大阪市土木技術協会・大坂都市協会、発行の『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』 に記載された上町台地の坂道に紹介された坂を基本に散策しています。 |
法円坂: 大阪城南部には法円坂が東に下り勾配で路が付く。 法円坂との語源に付いては諸説ありますが、故・山根徳太郎氏の「石山本願寺の考察・4、調査・考察まとめ」に下記のごとくの記述がある、 (何分にも法安寺が退転を重ねて殆ど寺家の記録を亡失してしまった今日、ただ『天文日記』のみをたよって法安寺のことを聞明にはなし得ないが、蓮如以後伝承して来た石山本願寺の寺域も、その土地の管理権は依然法安寺の手に残っていて、毎年本願寺より地子銀十貫文ずつ徴収して、これを京都の相国寺塔頭鹿苑院に輸していたこと、これまた明白に『天文日記』の記述するところである。 そしてこの生国魂神社の社域を中心として、一帯の地域が法安寺の手に管理せられていたことの名残が後年に伝わって、ついに明治十二年五月以降この付近およそ十万坪の土地が、法安寺の名称の転化である法眼寺より再転して法円坂町の名をもって称せられることになったと考えられるのである。) 参照:大阪城の諸研究 |
生玉神社御旅所: 生玉神社は奈良の大神神社の様に社殿を持たない形式の神社でこの辺りの地を神域として厳存していたのではないか?との説もあるようで、後年、天下人となった太閤は、元々はこの近辺に祀られていた生国魂神社を大坂築城時、天王寺区生玉町の現在地に移築しました。 そのため建設当初の大阪城大手門は生玉門と呼ばれていました。 大阪城築城以前は、この辺りから南東部かけて生玉社の社地と法安寺の寺域が広がっていたのかも知れません。。 生玉社が祀られた頃は、すぐ西側に渚が広がり淀川が運んだ砂が砂州を作り、陸地が伸びていくさまが見えた事でしょう、そのはるか西方には淡路島の島影や淡路に沈む夕日が美しく、また、東方に眼を転じれば生駒山から昇った旭が当時まだ存在した河内湖に照り返し、この辺りを神々しく照らし美しく在った事でしょう。 詩心のある人達の心を揺さぶる場所で在ったようで、多くの歌が詠まれています。 |
かぎや坂(S→N): かぎや坂、鍵屋の字を充てるのが適当だとの事ですが、伝承は何も残っていないそうです。 冬の青い空が青く映えて、ただ寒風が吹いていました。 |
かぎや坂(N→S): 今はただ町に完全に溶け込んでいます。 |
越中井: 聖マリア大聖堂の北、越中公園の向かい側に、細川越中守忠興の屋敷の台所に在ったとされる越中井がある。 1600年、細川忠興が徳川家康に従って関東に出陣した際に、大坂方の石田三成が人質として忠興の妻ガラシャを自陣に拉致しようとしたため、抵抗した夫人が家臣に自分の胸を突かせ果てたと伝わる、家臣はふすま越しに夫人の胸を貫いたと云われます。 石田三成は秀吉子飼いの事務方で、秀吉の朝鮮出兵の際に兵站輸送の段取りをほぼ一人で考えた程の天才的な数計の才能があった人の様ですが、謀反人の娘だから粗略に扱った訳ではないのでしょうが、どうも人のメンタル面には考えが及ばない方のようですね、メンタル面が理解できないと、当然の事として政治を行うのは無理でしょうね? |
ガラシャ婦人辞世の句: ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ ガラシャ婦人は 当時の権力者の娘に在りがちな、パワーゲームに翻弄された人生だったようです、謀反人の娘、大名の正室、権力者に遠慮しての幽閉生活、苦労・苦難・諦め・怨嗟・その人生は辛酸を舐め続けさせられた人生であったようです。 しかしながら別の角度(信仰を得たと言う点)で眺めると充実した人生であったかも?知れません。 死に赴く時、彼女は永遠の安住と安心を手に入れる事を信じ、死の恐怖を感じることなく自分が信じる天国へ旅だつ事が出来たのかも知れませんね。 近くのカトリック玉造教会にはガラシャの像がある。 |