熊野街道散歩 中辺路 大雲取越


今年2008年年頭に熊野三山巡りを踏破して、熊野の魅力を満喫した僕は最後の雲取越を残していたのが心残りな事であった。
年末に三連休が取れる事がわかって、雲取越を歩こうと思いついた。

準備をして仕事を終えた木曜の夜、JRに乗り込んで熊野へと向かった。   ルート 08/12/11〜12/13







 
 
仕事を終えてすぐに天王寺からオーシャンアロー29号に乗って、紀伊勝浦へ向かう。
平日でしたので、座席はすいていた。
紀伊勝浦駅のすぐ裏のホテルへ宿泊、部屋は値段なりでしたが、さすが勝浦・・温泉浴場が付いていて、いいお湯出ていました。
朝の勝浦港:夜明け前牛線が、漁船が忙しげにエンジンをふかして次々に港から出漁していました。
那智大社への参道:郵便局の古いポストに朝日が射して美しい。 いよいよ那智大社の鳥居があらわれました、こちらも朝日が射してきれいに輝いています。
那智大社の拝殿へ朝日が射して燃えるような赤に輝いていました。
朝日が射す場所を選んで社を建てたような気がしますね。
辰砂色に塗られた拝殿へ朝日が当たり輝くような赤に染まっている、神がかり的な美しさであります。
青岸渡寺:で隣には西国一番の青岸渡寺が・・始発のバスで着たので参拝客はほとんど居なかった。
那智のバス停から乗り合わせた人は青森の水族館から来ていて、那智漁港から青森へイルカを運ぶらしくて、安全祈願のために大社と青岸渡寺を参ると話していた。
古の旅人も・現在の参拝客も、何を祈るのか?。
家族の健康や幸多かれ・・等のささやかな祈りを数限りなく聞き続けてきたのだろう、本堂への階段や回廊の踏み板は磨耗して凹んでいます。
この寺も明治期には廃仏毀釈にあい寺の建物は取り壊された、この本堂だけは大きすぎて取り壊しを免れたそうだ、現在は国の重要文化財に指定されている。
寺の横には南北朝時代の宝筺印塔が建つ、この塔にも朝日が射して赤く染まっていた。 塔に彫られた種字に日が当たる、これも朝日が射す事を計算して建てられたのだろうか?美しい。
タイム↓
青岸渡寺
登り口
7:30
那智の滝にも日が射す、この辺りが聖地である事を身をもって実感しました。 青岸渡寺脇の大雲取越登り口:さていよいよ大雲取越の始まりです、靴の紐をきつく結わえて階段を上り始めました。
妙法山
分岐
7:43
妙法山分岐:きつい勾配の登りをしばらく進むと妙法山への分岐点が現れます、道なりに進むと妙法山へ行ってしますので、ここから右折れして那智高原公園へと向かいます。 青岸渡寺の階段を上り始めて半時間程で那智高原公園へでました、途中休みながらボチボチ登って来たので、時間がかかったようです。
この公園誰も居なくて寂しいところでした、店なども有る様子ですが、朝が早くて、営業しているのか?店を休んでいるのか分からなかった。
那智公園
8:00
大雲取越
分岐
8:09
公園の中を古道は進む、椿の花が綺麗でした。 公園の端には大雲取越の古道が始まっています、誰もいなくて寂しいので影を入れて撮影しました、この日は小口まで誰とも会いませんでした。
登り
8:21
ほぼ尾根伝いに伝わる古道は勾配がきつい所が多かった、杉林の中からきつい勾配越しに、高くて真っ青な冬の空がのぞいています。

青岸渡寺の階段から舟見峠辺りまで一気に高度が上がり、きつい勾配が続く・・こまごまと休憩を入れないとヘバッテしまう。
公園から半時間ほど登ると、登立茶屋跡があります。石垣が残っていますが今は杉の木が生えた原っぱになっています。
掲示板には、この道が国道42号線が整備されるまで、和歌山・大阪方面への幹線道路であった旨の説明があった、素直に驚く。
茶屋跡
8:39
茶屋の石垣にはびっしりと苔が覆い、植物展覧会の様相になっていた。廃墟は土に還ろうとしていた。 茶屋跡には陶片がたくさん落ちていた、茶碗の一部だろうか?この器を使った人は何を思っていたのでしょうか?「もう一息で青岸渡寺」だとか?「さてこれから本宮まで一仕事だな」とか思っていたのではないでしょうか?
小さな破片を眺めていると昔の人々の声が聞こえてきそうです。
舟見茶屋跡
9:21
船見茶屋跡:ここまで登って初めて海が見えます、不思議なもので熊野は海から近いのに海の雰囲気があまり感じられません。樹叢が盛んで海から少し山に入るだけで、森の空気に覆われます。
峠から海を眺めると海の近さを再認識しました。
昨日泊まった町が小さく見えた、はるか彼方の大洋から登る朝日は美しい事だろう、その向こうに浄土が有ると考えた事が少しは解るような気がした。
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色川辻
9:56
舟見峠を過ぎると植林層の気持ちのいい道を進む、しばらくすると色川辻へと至る、ここで舗装された林道と合流する、「八丁の掘割」との看板があるが説明が無くて意味不明・・道を普請するのに尾根を割った事だろうか?。
この辺りから卵型の石が出てくる、まさ土のようなので風化花崗岩の芯ではなかろうか?
ここで林道から古道が分岐する、石畳の階段を下り始めると、空気が変わってきました。
ごろごろ石
10:00
沢沿いにこんな感じのごろた石がごろごろしています、五輪塔の一部が落ちているような錯覚に囚われました。
少し不思議な空気が辺りを覆っていました。
苔むした石の緑と真新しい地蔵の前掛けの赤がほの暗い森の中で目に飛び込んできました。
なにか不思議な美しさがありましたね。
独特な空気の中を歩を進めて行くと・・こんな景色に出会いました。
杉木立の中を木漏れ日が射して大岩を照らしていました、張り詰めた空気にそこだけが生きた血が通うように暖かい空気が漂います。
太陽光線がスポットライトとなって大岩にあたっている、神秘的な景色です。
妖精が飛び交っているような錯覚を感じました、俺的に「精霊の森」と名づけました。
岩の表面には苔がびっしりと覆っていて、カーペットのような感じになっている。 岩苔のカーペットを横手に古道を進む、木漏れ日が気持ちがいい。
卵石
10:31
卵型の岩がありました。風化した花崗岩でしょうか? 卵石を過ぎると地蔵茶屋跡まで舗装された林道を進む、道の真ん中から水が沸いていました。
地蔵茶屋跡
10:53
地蔵茶屋跡にはトイレと休憩所が二つ有る。ひとつはしっかりした造りの小屋で炊事場まで設えてあった。
ここには立派なほうの休憩小屋の小口側に飲料用自販機が在ります。
水の確保が難しいルートなので補給しました。
炊事場つきの休憩所は夕方5時以降は鍵がかかるようです、訪問帳があって日本全国から訪れた人がコメントを書いていました。
ここを過ぎるとゆっくり休憩できる場所が無いので靴を脱いでしっかり体を休めましょう。
大雲取地蔵尊:地蔵尊の横にある碑には「ありがたや・おおくもとりのじぞうそん・みちびきたまえ・はなの・おてらへ」とあった。 堂内には堺の魚商人が寄進したと伝わる三十二体の地蔵が祀られていた。
元は三十三体在ったものが一体は盗難にあったそうだ。
牛鬼の滝
11:30
地蔵茶屋跡で休憩して石倉峠を目指すと、林道合流部に「牛鬼の滝」の看板が出ていました、歩いて10分程の寄り道でしたので、見に行きました。
なかなか姿の良い滝でしたよ。
滝見を終えて石倉峠を目指します。
石倉峠へ
11:47
石倉峠への登り口の石畳脇には供養塔が建っていました、樒と柿が供えられていました。 石畳には急勾配の上にびっしりと苔が生えていて、滑りやすく怖いのぼりでした。
石倉峠
12:03
石倉峠:峠には古い五輪墓の一部や明治34年の銘が入った無縁仏地蔵が祀られています、厳しい道なので行き倒れになる人も多かったのでしょう。
斉藤茂吉の「遍路」にある登場人物とイメージが重なった。
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石倉峠からの下り:日本でも屈指の豪雨地帯だけに石畳にはびっしりと苔が覆っている。
道脇の切り株は菌類の繁殖が激しいのか?土に還ろうとしている。
越前峠
12:36
しばらく進むと林道に合流して小さな川に石の土台で出来た橋が架かっている、川を覗くと小ぶりな川魚が泳いでいた。 川を渡ってしばらく登ると突然に越前峠が現れる、茶屋等があったのでしょうか?石垣跡と陶片があちこちに散らばっています。
ここを過ぎるといきなり下り坂が始まりますので、しっかり休憩しときましょう。
胴切坂
13:06
道はどんどんどんどん下って行きます。 胴切坂とは良くつけた名ですね・・あまりに激しく下るので胴が切られそうです、おなかが痛くなるほどでした。
どこまで下るンやーといいたくなる下り:とにかく下ります、僕の大腿筋はほぼ限界に近づいていて悲鳴を上げていました。
越前峠を過ぎるといきなり下り坂が始まり、勢いにつられてここまで下ってきましたが、きつい坂です・・
越前峠が少し暗い雰囲気だったので休憩せずにきましたが、後悔しました、ここは大人になって、越前峠でチョコとか饅頭で糖分を補給してから歩くべきでした。
路傍の地蔵尊:そろそろ楠の久保旅籠跡という場所の杉木立の中に苔むした地蔵が佇んでいた、この地蔵をモチーフにした写真が何かの賞を受賞していたので、撮影スポットになっている様子です。
山中は昼の時間を過ぎるともう夕方の様相になってきて、夕日を背に受けるような感じになってくる。 かつてこの辺りには相当な人家があったようです、数百メーターに渡って石垣が残っていました。
苔むした石垣の脇を通る古道。
楠の久保
旅籠跡
13:49
掲示板には・・・・・楠の久保旅籠跡
 昔はこの雲取越えの道を熊野詣での道者が列をなして通ったと聞きます。東国の人が多かったのでしょうか、巡礼姿の人を「奥州兵衛」と言ったそうです。
楠久保には道沿いに拾数軒の旅籠がありました。北に見える小雲取の桜茶屋を指差して、あそこまで宿屋がないかここに泊まるようにと客引きをしたとも伝えられます。
或旅日記に(1747年4月)九日・・・地蔵が茶屋、越前の茶屋有、山内林木の中を通る事久し、楠がくぼと云茶屋に宿候、山内所所の茶屋にも人を留候得共、米と焼火計にて夜具なし、此辺不自由成所にて候。
十日、夜の中より風雨甚、前路山峻く候故、逗留致候、猿多く山に出候を見申候、亭主馳走心にていろいろ致す体に候え共、干蕨の外は菜・大こんちのるい一切無之、漸みようがたけを煮候て、給させ候・・・       と記されています。
 ここ楠久保に人が住まなくなったのは昭和三十五年頃のことです。
昭和三十五年頃まで人が住んでいたんですね。
石垣の周りには陶片があちこちに散らばっています、この場所に佇んでいると、巡礼者の笑い声・白粉の香り・三味の音、などが聞こえてきそうです。
旅籠跡には名号石がありました、かつてここで生活した人々を鎮魂する為でしょうか?静かに佇んでいる。
円座石
14:35
道を下ると大岩がありました、ここにも名号が掘り込まれています。 14:35やっとこ円座石までたどり着きました。
きつい下りの連続で足が笑っています、冬場は日が短いので休憩を取らずに来ましたが・・休み休み歩かないと身が持ちません。
円座石:大きな岩で苔が生えて緑が美しい。
小口集落
15:00
円座石からだらだらと続く下り道を半時間ほど進むとやっと小口集落が見えて来た。
人家を見るのは青岸渡寺から7時間ぶりとなった、ちょっとうれしい。
やっとこ小口へ:イヤーキツイ道でした・・距離はたいした事は無いのですが、舟見峠・石倉峠・越前峠、と800メーター代のピークが三つもあって上り下りが応える道でした。
で、小口側の登り口には登山届けを入れる箱が置いてありました。小口側から大雲越を歩かれる人はあの急勾配の胴切坂を登る事になるんですね・・これはきついだろうなぁー。
登山届箱を後に下ると古い木造校舎が見えたので立ち寄る事にしました。
小口小学校:平成7年3月31日に熊野川小学校に統合されて現在は使われていません。南方商店のおばさんのお話では、在所の大人はみんな卒業生との事、でもほとんど都会に出てますよ。と少し寂しげにおっしゃっていました。
40代以上の人には鼻の奥が、つんと来るような懐かしさがありますよ。
売店:南方商店、大雲取越の登り口脇にある売店でおそらく小口では数少ない売店ではないでしょうか?店の前には公衆電話もあります。ちなみに僕の携帯電話(AU)は小口では圏外でした。
酒類も売っているので、麦ジュースとか翌日の小雲越へ備えて甘いものなんかを仕入れときましょう。
「小雲越の小口側からの登りは桜茶屋跡まで結構きつい、胸突き八丁で体力消耗しますので、チョコを持っていきました。
小口川は清流で透明度も高い、夏場は川遊びも楽しい事だろう。
東川も透明度が高い清流、小口で小口川・東川・赤木川が合流して熊野川へ注ぐ。 百福:今日のお宿は民宿・百福、田舎の親戚の家へ来たみたい。
当初「小口自然の家」へ予約を入れたのですが、当日僕一人なら民宿を紹介しますとの内容で打合せをして、結局僕一人しか予約が無いとの事で転送されました。
 こちらの宿は、ご飯が旨かった・・おかずか旨くてご飯を御替りしまくってお腹かちかち状態になっちゃいました。
部屋も普通の民家なので「田舎に泊まろう」みたいな雰囲気でノスタルジーに浸れてよかったです、僕は落ち着いてしまってすぐに爆睡しまして都合10時間くらい眠ってました。
災い転じて何とかで・・良い所に泊まれました。
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