熊野街道散歩 鳥羽離宮から

 鳥羽離宮は平安時代後期に白河上皇が造営した離宮で、規模は東西1.5km南北1km、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇と4代150年に渡りここで院政が行われることになりました。

 承久3年に、後鳥羽上皇が挙兵(承久の乱)しますが、これが失敗に終わり、幕府による大粛清があり、院政の終焉とともに離宮の歴史も終わりを告げました、今では、「安楽寿院」、「城南宮」、「秋の山」などが往時を偲べる遺構となっています。

 うがった見方をすると、鳥羽離宮の造営と熊野詣の目的は摂関家から荘園を取り戻す事が最大の目標であり、院政が軌道に乗り着々と目標達成を遂げていた所に、頼朝が幕府を樹立して、なおかつ地頭を置いて東国の荘園を押さえ込んだものだから、上皇達も目減りしていく領地をまのあたりにして面白くなかったんでしょか?武力闘争と言う大博打を打ちましたね、シビリアンコントロールなんて微塵もない時代ですから、まあ「軍事力=実権」となるでしょう、北条政子の迫力の寄り切り勝ちのだったようですね、政子に叱咤された20万の坂東武者に囲まれた都人は怖かったでしょうね。

と言うわけで「どんなわけや?」中辺路散歩の翌日もいい天気でした、あんまりいい天気なもんで、熊野詣の出発点である鳥羽離宮跡に訪問しました、貴族達はここから船に乗り淀川を下り、熊野詣に出かけたそうです、上皇たちの夢の址ですかな・・                    
 07/10/7 コース地図PC  コース地図携帯   


安楽寿院:鳥羽上皇の御願によって東殿に建てられた御堂で、二基の塔、九体阿弥陀堂、不動堂などが附設されていて、静かな住宅地の中に佇んでいます。 院政ノ地碑:上の写真は、「白河法皇 鳥羽法皇 院政之地」と記された石碑で、鳥羽天皇陵の前にあります。
鳥羽離宮跡掲示板安楽寿院の前にはかつてここにあった鳥羽離宮の俯瞰図と説明の掲示板が有りました。上図クリックで拡大画像が見えます。
三如来石仏本堂のそばに、三尊石仏が2つ安置されています。平安時代の作で釈迦、弥陀、薬師三尊の3面が江戸時代に出土したと伝えられていて、弥陀三尊像は京都国立博物館にあります。

平安時代の石仏が出てくるあたりが、さすが京都と云う感じですね。
廻國行者奉納板碑:安楽寿院の前のには江戸麻布の人が奉納した板碑や宝篋印塔があります、大切にされていて保存状態もいいようですね。 大師堂:拝一刀と大悟郎とか出てきそうな雰囲気が漂うお堂がありました。
安楽寿院:訪問日は天気が良くて、苔と建物の影が美しいコントラストを出していました。 京都らしいとでも申しましょうか、路傍に五輪塔があり、そばには彼岸花が咲いています。
石造五輪塔:
老人ホームの前には、大きな五輪塔があります。如法経塚ともいい、鳥羽上皇が如法経を納めたと伝えれていますが、弘安10年の建立で、3メートルもある堂々としたものであり、鎌倉時代の典型的な形の五輪塔で重要文化財に指定されています。
後ろの車と比較するとこの五輪塔の大きさが解かる、大きな存在感があり なにか 人が立っているような 雰囲気が漂っています。
その西側の法華堂(幕末の再建)が鳥羽天皇陵でした。 鳥羽離宮には3つの天皇陵があります。地下鉄竹田駅の西南、安楽寿院の南にそびえる木造の多宝塔(豊臣秀頼の再建)が近衛天皇陵
白河天皇陵:今はこじんまりしていますが、築造当時は一辺56メートルの方形で、周囲に幅8.5メートルの濠がめぐらされていたことが分かっています。

現在は陵墓の前にバイパスの高架が建設中で、近々に完成しそうな状態でした、草葉の陰の上皇もうるさくなる事ですね。
城南宮:ここは往時の鳥羽離宮の敷地内になります。神功(じんぐう)皇后、大国主命、国常立尊(くにとこたちのみこと)を祀る神社です。

その創建は神功皇后が戦舟(いくさふね)に掲げる御旗を大国主命の御霊と共に、この地に納めたことによるとされます。
城南宮の菊水若水水は霊験あらたかで、東大寺のお水取りの香水は、若狭・遠敷川から「菊水若水」を通り、二月堂の若狭井に達すると伝えられています。伏見の名水10カ所にも選ばれています、鴨・淀川の伏流水でしょうか。 訪問日は観光バスが来ていて大勢の見物客を降ろしていました、皆さんの後について観光ガイドを聞いて少し得した気分です、団体さんは宮参りの後に、庭園の(有料)見学に赴いていましたよ。
日・月・星、を象った三光の御神紋は神功皇后の旗印に因んで広大な方除の御神徳を表し、建築・転宅・交通・旅行安全の神として信仰が深いそうです。


平安時代の末になり、貴族達が紀州の熊野三山に参詣することが一大ブームになりました。出立の前にはこのあたりで精進潔斎を行い、熊野へ旅立ちました、藤原定家もこのあたりで精進潔斎を一所懸命行ったのでしょうね?



訪問日に観光客が大勢訪れていた為なのか、巫女さんが忙しそうに立ち働いていました、暗い社殿の中に巫女さんの着物が揺らめいて神々しい美しさがありましたよ。
鴨川: 城南宮の西側。

上皇達が船に乗り込んだとされる 鳥羽の湊 は中書島辺りとだそうですね、復元図を見ていると 鳥羽の湊 は少し離れているので、このあたりの鴨川から船に乗っていたかも知れませんね。

この辺りから船にゆられて淀川を下り、窪津に着いて徒歩による旅がはじまりました、いったい何を求めて遥か熊野の地まで難行・苦行を続けて旅立ったのでしょうか?

書く言う「私」も何気に始めた 熊野街道 の徒歩走破に取り込まれて、その魅力の虜になっています、熊野とはなんとも不思議な神様ですね。
一つ次の 熊野街道散歩@渡辺〜遠里小野へ


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