熊野街道散歩G  山中渓〜布施屋


熊野街道散歩も紀州編を迎えました。
峠を越えた古道は紀州の大山塊をまいて海側を進みます、和歌山県は熊野古道を前面に観光PRを行っているので、案内板や地図も丁重に整備されていて散策には道に迷わず助かります。06/11/12  コース

和歌山県に入ってからは、 和歌山県街道マップ〜高野めぐり・熊野古道〜  が必見です。
熊野街道散歩は 且Rと渓谷社 歩く旅シリーズ 熊野古道を歩くISBN4-635-60033-5 並びに 旧陽書房  熊野古道ガイドブック 熊野への道ISBN4-906108-37-7 を参考に訪問しました。






※この区間は車に注意して歩きましょう。
山中関所跡
JR山中峡駅を南下してしばらく行くと 山中関所址 がある。
かつては熊野街道を通る人々から木戸銭を徴収して儲けたようである。
山の狭隘部に関所は設けられていました。
熊野詣でで随分、儲けた 様ですね。
日本最後の仇討ち場
安政四年(1857)に土佐藩士『広井大六』は同藩士の『棚橋三郎』に口論の末に斬捨てられた。
『大六』の子『岩之助』は安政五年江戸に申し出て『仇討ち免許状』を与えられた、『岩之助』は加太に潜んでいた『三郎』を発見し紀州藩へ改め仇討ち申し出た所、
紀州藩は『三郎を国払いとし境橋より追放する仇討ちをしたければ境橋の和泉側にて仇討ちすべし』と伝えた。

文久三年(1863)岩之助は境橋の和泉側で三郎を待ち受け見事に仇討ちを果たしたとされる。



中山王子址
JR阪和線の滝畑踏み切りを渡ったところに、中山王子址がある。

案内板には・・・・前半割愛

『後鳥羽院熊野御幸記』(建仁元年〜1202〜の後鳥羽上皇熊野参詣に随行した藤原定家の旅行日記)には、十月八日の頃に「天、晴る。ウハ目王子に参る。沢、中山王子に参る。」と記されている。
ここから南へ約四キロ行くと次の山口王子社がある。





滝畑集落

滝畑集落を通る古道はおそらく往古の姿を良く留めているだろう。

民家の間を ゆるゆる と街道を進む。
雄ノ山峠

かつての雄ノ山峠を回顧できるものは殆ど残っていないが唯一峠付近の 不動明王 象が往時の面影を伝える。
今でも花を供える人がいる様で、今に生きる不動さんです。

阪和道の橋梁
古道は和泉山脈の北側を緩やかな勾配で稜線に進みますが、峠を越えたとたんに急激に下り勾配になる。

日本でも有数の断層帯である中央構造線の破砕帯の上を道が通過している事になるので峠の南側はほぼ「崖」に近い道となる。

現在の街道である 阪和道 もこの急勾配を 梁 でもって通過している。

雄ノ山峠からの紀ノ川の遠望は雄大な眺めで必見ものであった、またその風景は四国の阿讃山脈から吉野川を眺めた時の風景を反転した景観でもある、紀淡海峡を挟んで、紀ノ川と吉野川は相似形をなしている。






山口王子址
雄ノ山峠を下り20分ほど歩きバイパスから左に旧道を進みとすぐに山口王子址に行き当たる。
紀ノ川が作り出した河岸段丘の山際にあたる場所である。

付近には小野小町の墓があると伝わる小野寺址が有ったり、遺跡や古墳の分布も多くあり、昔から紀ノ川の恵みにより人が生活しやすい地域であった事だろう。

山口王子を過ぎて左手すぐに、小野小町の墓と伝説が残る墓がある。
小野橋を渡り左手すぐの民家脇。


くわしくは。


墓所の中の道標
山口王子址を南下して県道に合流したあたりの墓場の端に道標がある。
右加太淡島神社道、左和歌山??と刻む。
墓所内の道標を西に折れてしばらく行くと小さな川の袂にある木の下の祠に 役行者(小角) が祀られてある。
役小角は奈良時代初期修験道を開祖したといわれる、吉野・大峰・金剛・葛城、近辺に大変足跡の多い人だった様で、関連する史跡や社寺が多く在る。

ここから大和街道が分岐する。
山口神社参道鳥居

現在のガイドブックでは県道24号線を古道とされる様ですが、この鳥居前の道はいい感じで 古道の 雰囲気を残している。










川辺王子址

        高札には こう記す。

  この川辺王子社跡は、現在、和歌山市上野二三番  地にあたる。
  八王子社として祀られており、和歌山市内にある王  子社跡のなかでは比較的古いおもかげを残している  ところである。
  京都の貴族による熊野詣は、平安時代の終わりか  ら鎌倉時代のはじめごろ(十一世紀終〜十三世紀   初)に最も盛んにおこなわれたが、そのなかで建仁  元年(一二〇一)の後鳥羽上皇熊野詣に随行した   藤原定家の旅行日記である『御幸記』の十月八日   の頃には「次に川辺王子に参る」と誌されている。
  川辺王子の位置については、いくつかの異なった考  証があるが、この付近では熊野参詣道の道筋が時  代によって多少変わったり、王子社の後身である神  社が後世に移転したりしたためと考えられる。
  次の王子社は、神波を経て南東約一.二キロの楠   本にある中村王子である。
    平成五年八月二日
    和歌山市教育委員会

現在の道標
和歌山県は 熊野古道 を大切に守っています。
行きかう人に楽しんでもらいたい思いが伝わります。

街中のややこしい分岐点等には 必ず このマークが道路に埋め込まれていて、迷うことは皆無でした。
中村王子址
田んぼ端の高札には こう記す。
川辺から神波、楠本にかけて、平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけ盛んにおこなわれた熊野三山への参詣(熊野詣)の道が通っていた。
この参詣道の要所要所には、休憩や熊野三山の遙拝のための施設(王子社)が設けられており、この付近には中村王子社があった。
楠本の古い地名が中村であったと伝えられているために、中村王子社と呼ばれている。
川辺王子社や中村王子社の位置はいくつかの異なった考証があるが、これは熊野参詣道の道筋が年代によって多少変わったためと考えられる。
中村王子社の次の王子社は、紀ノ川を渡って吐前王子社となる。

     平成五年三月三十一日

      和歌山市教育委員会
中村王子址
この辺りは紀ノ川の氾濫原であったろうから、王子の場所も変わり続けた事だろう。
力侍(りきし)神社の社叢

力待神社の社叢は古の鎮守の森を今に伝える貴重な神社です。
神社参道口には川辺王子址の板碑がある。
波切不動尊
力待神社を越えて1キロ程進むと波切不動を祀る辻堂に出る、昔から海上安全や豊漁祈願に崇拝されている仏であるので、かつてはこの辺りから 渡し が出ていたのかも知れない。。

いずれにせよ、畿内一の暴れ川であった紀ノ川流域は氾濫源も広かったであろうから、川の流路と共に王子や渡し場等もどんどん変化したことだろう。
道の辻には姿のいい地蔵が鎮座していた。
川辺あたりの道標
辻堂がある辺りには、古い家並みが続く。
川辺の道標には
 「南面に 新義本山 根来寺 三国一錐もみ不動尊、西面に 左大坂みち、東面に 右北 大坂みち、と刻む」。
道標脇には旧家が建つ。
川辺橋(遠景)
かつて渡しが在った辺りには現在の鉄の橋が掛かる。













川辺橋たもとの地蔵
川辺橋のたもとには石の地蔵が安置されていた、謂れなどの高札が無いので経緯に付いては解らない。












紀ノ川
紀ノ川は遥か大台ケ原を源流とする一級河川である、紀伊半島の大山塊を出発した小川は周りの沢を流れる川を巻き込み、やがて日本でも一番の大破砕帯である中央構造線に出会い大河川に成長する。
布施屋の渡し場址
現在の国道は川辺橋を渡るが、徒歩で旅をしていた時代は船に頼らざるを得なかった。
渡し場跡を示す高札
昭和30年代まで渡し場が使われてきたことが書かれていた。






和歌山でも有数のスーパーの食品加工工場が建っている。
吐前(はんざき)王子址
この王子址(王子)は渡し場の移動と共に廃れたようである。
布施屋駅

布施屋の地名はかつてこの辺りに 旅人に なにかれと 布施 を施す家があった事に由来するらしい。
JR和歌山線
ローカル線で帰途に着きました、学生さんが沢山乗車していて賑やかな電車でした。
紀伊の国一ノ宮 日前宮 訪問記
日前大神(ひのくまのおおかみ) 國懸大神(くにかかすのおおかみ)
熊野街道散歩では、訪れた旧分国の一ノ宮に訪問をしています。
今回も紀伊の国編に入りましたので、紀伊の国一ノ宮へ表敬訪問&交通安全祈願に訪れました。現在の和歌山県の一ノ宮は日前宮、 伊太祁曽神社、 丹生都比賣神社、の三社がありますのでもれなく訪問できるかな。

紀伊の国一ノ宮は鬱蒼とした緑に覆われた森の中に鎮座ましていました、太古からの原生林なのでは?ないか?と思うほど緑濃い空間です。
社殿の前には大きな樹が育っていま。
その樹の根元には緑の美しい羊歯が元気良く芽吹いています。
訪問日はちょうど七五三参りの日でした。
沢山の家族が 我が子が元気で、その人生に多く幸あれかし と 神に願いを掛けていました。



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