阿倍王子神社御由緒

●鎮座地

5450034

大阪市阿倍野区阿倍野元町94号[旧天王寺村大字阿倍野字王子前451番地]

●史 跡

大阪市顕彰

もと熊野街道  (阿倍王子神社)

安倍暗明生誕伝承地(安倍晴明神社)

●保存樹・保存樹林

大阪市顕彰 樹齢45百年の楠の大木3本。

及び安倍暗明神社境内全域。

●由 緒

当神社の縁起絵巻「摂州東成郡阿倍権現縁記」によれば、当社は仁徳天皇によって創建され、平安時代の初期天長3年(826)弘法大師が、淳和天皇の勅命で当社に参り、疫難退散の祈藤を修して功なり、痢勉寺(通阿倍)の勅額を賜ったといわれますり 仁徳天皇創建はともかくとして、平安時代初期には当社は存在したと思われます、阿倍野は古代の家族阿部氏の居住した土地で、奈良時代には氏寺として阿部寺があり、口碑に「阿部寺千軒坊」と伝える程の大寺でした。(旧跡は松崎町2丁目松崎町モータープール)氏寺が有った以上氏神も当然有った訳で、それが当社の元宮であったと考えられますこ ところが平安時代になると、阿部氏が他所へ移住してしまい、阿部寺も四天王寺に併合される中、熊野信仰が盛んとなり、当社が熊野街道(当社の西門筋)の途中に位置していたので、熊野王子杜と成った訳です。

また当社は四天王寺と住吉大社との丁度中間に有り、王子社の立地には相応したお宮でした、熊野詣は平安時代から盛んと成り、「嬢の熊野詣」といわれて室町時代頃まで続きました.途中の街道には熊野九十九王子と呼ばれた王子杜が出来ました。「王子」とは熊野=本宮、新宮、耶智大社)の末社という意味で、京都から摂津、和泉を経て熊野に至る街道の途中に、休懲と遥拝の為に設けらたお宮で、土地の名前を付けて○○王子と呼ばれました。

当社は阿倍野王子と呼はれ鎌倉時代の歌人藤原定家の日記「名月記」建仁元年(1201)の[後鳥羽院熊野御幸記]には、クホ(窪)津王子、坂口王子、コウト王子の次に阿倍野王子(第4番目) と見えています。王子社には元からの古いお宮に熊野神を合祀たり、また新しく創建された場合(例、大鳥居新王子)も有って、当社は前者に当ります。

また当社は第4番目で有ったのに、後世第二王子と呼はれるのは、南北朝時代の戦乱で途中の王子社が消失してしまい、安土桃山時代には第2番目の王子社と成っていた訳で、江戸時代の「産分船」(あしわけぶね)等の書物には、当社が熊野第二王子として見えています。

王子社の中には、熊野信仰の衰退と共に退転してしまったお宮も有りますが、幸い当社は中世以降阿倍野村の氏神として信仰され、現在に至っており、大阪府下では唯一の旧地現存の王子社として栄えています。

(安倍晴明神社について)

●晴明神社沿革

安倍晴明神社は暗明公没後2年の寛弘4年の創建と伝え、暗明公の子孫と称する保田家が代々社家として奉仕し、江戸時代には大社の−一として、大坂城代更迭の際は特に当社に参拝され、古文書拝観を例とした程の格式ある神社であったが、幕末社家の没落と共に衰微し、明治時代には文政年間堺の住人神奈辺大道心が建立した、「安倍暗明誕生地」の石碑と小両のみであった。

明治末に復興が計画され、大正10年阿倍王子神社の末社として復興が認可され、社家の子孫の保田伊之助氏が旧社地を寄進して、大正14年現在の社鞍が竣工した。

●伝 説「葛之葉子別れ伝説」

今から一千年の昔、阿倍野に安倍保名という人がいました。或る時家来と和泉の信太明神(聖神社)にお参りし、信田の森で遊んだ処、符に追われた自狐が逃げ込み、これを隠まってやりました。その後白狐は恩返しの為に、女の人になって保名の所へ来ました。女の人は常之辛と名乗f)、二人は結婚して安倍暗明神社の辺りに住みました。

やがて子供が生まれ安倍童子と名付けましたが、この子が幼少の頃に、母の影に狐の

姿を見ました。童子が驚いたのでこれを恥た葛之葉は、障子に「恋しくば、尋ね来てみよ 和泉なる信田の森の 恨み葛之菓」という歌を残して、信田の森に帰りました。

童子が泣くので、保名が童子を連れて后田の森に行くと、葛之葵が現れて童子に知恵の玉を授けました。

やがて成人した安倍童子は、名を安倍晴明と改めて、京都に上って陰陽家の賀茂忠行と子息の保憲に弟子入りして、陰陽道と天文学とを学び、朝廷に仕えて天文司和犬博士に成りました。また占いが上手で神様のようによく当ったといわれます。この「葛之菓子別れ伝説」は、江戸時代に竹田出雲の作「芦屋道満大内鑑」、と成って、歌舞伎や文楽でも上演され、全国的にも有名な伝説です。

阿倍王子神社

大阪市阿倍野区阿倍野元町94

TELO666222565

FAXO666222993


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