井ノ口王子跡
街道は30号線に合流する。ここに井ノ口王子跡の石碑が立っている。
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王子跡を示す石碑
現在は井ノ口王子は泉井上神社に合祀されている。
かつてはこの辺りから槙尾川を渡っていたのでしょう。 |
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柳田橋南側の道標
橋の南には古い道標が残っていました。 |
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地蔵さん
街道と府道227号を過ぎたあたりにいい感じのお地蔵さんがありました。
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小栗橋
新たに掛けた橋には 小栗橋 の命名をしたのでしょう。 |
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行き止まりの街道
南進する街道は ○○牛乳の工場に行く手を阻まれてしまいました。 |
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小栗街道とは、江戸時代以後、浄瑠璃や歌舞伎で有名となった小栗判官と照手姫の伝説により、呼ばれているものであり、熊野街道として知られている 旧街道である。・・・と記載されている看板。 |
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池田王子跡付近
池田王子は現存していません。
久米田駅の裏辺りが王子跡ではないか?との説がある。
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久米田駅南二番踏切
雑誌 堺泉州によると
「この踏み切りの南にあるある道こそが熊野古道だと言うわれている。」との事。 |
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熊野古道
踏切から南下する古道。 |
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久米田駅西の地蔵
池田王子跡推定地辺りにある地蔵 |
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久米田寺
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楼門
池に向かって開いています。
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土壁の残る参道
参道脇には今では珍しい本物の土壁が残っています。 |
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僧行基(ぎょうき)が、天平10年(738)に開基したが、永禄年間の三好氏と畠山氏の戦火で焼失。現在の建物は、江戸時代中期に再建されたものである。久米田寺所蔵の文書のうち、「楠家文書」などが、国から重要文化財として、指定されている。 |
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久米田池
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顕彰碑
史跡名勝の碑がありました。 |
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方水路辺りの地蔵
この池の利水権は多岐に渡っていたのでしょう?方水路脇の地蔵がたくさん在りました。
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僧行基(ぎょうき)によって、神亀二年(725)から、天平10年(738)までかかって掘られる。中世、久米田寺の管理をはなれて、久米田池郷を形成し、昭和32年久米田池土地改良区を設立した。周囲約2.8キロメートルの、泉州で一番大きな池である。 |
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橘諸兄塚
正式な名称は 貝吹山古墳 です。
地元では橘諸兄塚と呼ばれているそうで、実際の左大臣橘諸兄との関係は?の様です。
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貝吹山古墳
頭頂部は国土地理院の三角点になっていました。 |
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周濠
周濠の痕跡の一部がきれいに残っています。
かつては久米田寺の管理地であったので水田化される事を免れたのでしょうか?。 |
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風吹山古墳(かぜふきやまこふん)全長約71m、円墳部径約59mの古墳で、古墳を上から見た形が帆立貝に似ていることから、帆立貝形古墳と呼ばれています。
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貝吹山古墳(かいぶきやまこふん)全長130m、後円部径75mの前方後円墳で、4世紀後半に造られたと考えられています。墳丘には埴輪が並べてありました。また、周濠がありその痕跡の一部が現在の山田池、ねんど池、どじょう池になっています。
発掘調査で後円部には石棺と銅鏡、銅鏃、鉄製かぶと、腕輪形の石製品などの副葬品もあったことが明らかになりました。ただ、中世に盗掘を受けているので、本来の状態などは明らかではありません。
現在、久米田公園内に存在する古墳の中で、最大規模の古墳です。 岸和田市のホームページより
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轟橋
轟橋は小栗の土車が橋を渡ろうとした時、橋桁が折れ、車が
川に落ちかけた事から轟橋と呼ばれるようになったと伝えられています。
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轟橋
かつての橋は架け替えられて新しくなっています。 |
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道標の地蔵
轟橋を南下してしばらく行くと道標の地蔵さんがある。
右水間○犬鳴
左堺 大阪 |
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轟橋の架かる春木川は平成2年に「ふるさとの川整備河川」に指定され、散歩道や柳並木等を整備しており、付近の人々に親しまれています。 |
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和泉式部の伝承地
和泉式部は恋多き女性で有ったようで・・・
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恋ざめの淵
和泉式部は男に金がなくなるとこの 恋ざめの淵 で顔を洗って恋心を冷まして分かれたそうです。
現在06/6/10では住宅地に囲まれて窮屈そうでした。 |
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作才町
このあたりは昔の路地が残る残る落ち着いた街です。 |
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和泉式部の伝承地
和泉式部の伝承地なのですが、案内板等が皆無です。
唯一仏壇屋さんの看板が 和泉式部 との関連を示しているようでした。
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恋の淵
和泉式部は、金持ちの男を見つけると恋の渕で顔を洗い、男と契りを交わし、やがて男の金がなくなると、恋ざめの渕で顔を洗い、恋心を冷ましてわかれたとの事。
夫の浮気や女狂いに悩む女性が、この渕に祈って、汲んだ水を相手に飲ませるために持ち帰ったそうです。
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個人的な感想としては和泉式部は上昇志向の強い、肉感的な女性を想像してしまいます。 |
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共同井戸と夜泣き石
このあたりは涌水に恵まれた土地柄で有ったようで
水 にまつわる伝承が多く残る。
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共同井戸
街道の分岐点にあたる場所に共同井戸がある。
古には女房達が楽しくしゃべりながら洗い物をしていたのでしょう。
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旧津田川伏流水の東端にあたり、湧水が多く見られる。その一つを利用したもので、すぐ傍の夜泣石が目標となっている。
との事、(岸和田市ホームページ、岸和田風景百選より) |
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作才の夜泣き石
近世中期、堤(つつみ)の釈迦堂(しゃかどう)前に置かれた飾り石を沢(さわ)の百姓たちが無理やり持ち帰って、溝(みぞ)の渡し石にしたところ、石はその夜から、
「往(い)にたやな、堤−堤−」
と、ひとしきりむせび泣いたという。
(岸和田市ホームページ、岸和田の昔はなしより)
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街道沿いで見かけた看板
熊野詣でが流行った頃は貴族達は贅沢を謳歌しつくして、その上にあの世での成仏を願っていたようですね。
労働(働いて・食べて・寝て・生む)しなければ生きて行けなかった当時の庶民階級とはその感覚に雲泥の差が有ったのでしょう。
その貴族達の心情は→(右看板)で有ったのではないか?と思う。
贅沢三昧だけれどもいつも不安な貴族と、生きるために必死な庶民と どちらが 幸福で有ったかは 誰も解らない・・・・・ |
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