熊野街道散歩E  和泉橋本〜和泉砂川


泉南は魅力的な地域です。
若衆とか、親等の言葉が現在に生きる地域である、また戦国の激戦地が残り、名を惜しんで死地に向かった漢達の墓がありました。
遠く熊野の山河へと向かう私は何処から来て。何処へ去るのか?難しい事は祭りの後に考えましょう。 06/10/9 コース






吉祥園寺
吉祥園寺は白鳳時代の創建と言われ、戦国時代の戦乱で焼失するまでは壮麗な堂塔が建ち並んでいた。
境内にある木造
 さいせん と彫ってある、愛嬌のある顔である。
寺の縁起が記された高札
本尊の十一面観音像は海から貝に乗って現れたとの伝説がありETC詳しい説明がされていた

白河法皇、後鳥羽上皇が熊野詣の折に、吉祥園寺で昼食をとったとの記録があるとのこと。
鶴原王子址
鶴原王子址も址地は確認できていない。
貝田会館のある場所を址地とする書籍もある、訪問日(06/10/9)は祭礼の翌日でもあったので、会館には大勢の人達が だんじり を清め、収めていた。
若い人達が年寄りの指示でテキパキと仕事をしている、古きよき 日本の原風景 がここでは生きている
泉州はかつては繊維(タオル)の一大生産地でした。木造の古い建屋も往時は繊維を編んでいたのであろう。
佐野王子址
佐野王子址には大阪府が碑を建てていました。
五輪塔の一部(空・風、輪)が碑の前に置いてあった。
王子の由来を書いた高札
佐野王子の手前辺りから紀州街道が合流してくる。
泉佐野市場界隈の道標
犬鳴山不動への道を指し示す道標がありました。明治38年の年号と寄進者の名が刻んである。
長滝辺りの家並
古街道の雰囲気が残る
長滝辺りの家並
門構えの立派な古い民家が多い。
蟻通神社
この神社はかつて熊野街道にそった、市場と安松の中間にあった。が、昭和17年に旧陸軍佐野飛行場建設の爲に当地に移った。
創祀も古く、紀貫之の故事や能にされる程、霊験あらたかな神様ですが、軍隊とは勇ましいもので そこのけそこのけ だったのであろう。
条里制跡の道
この辺りは条里制の跡が綺麗に残っているとの事。
航空写真でも良く解ります。
条里制の遺構がある位の場所なので神社の由来記によると弥生中期の創祀とのこと、さもありなんと頷ける。
八丁畷地蔵
像の右側に「天正十八年卯年二月十八日」と刻まれているとの事。
このお地蔵さんのお陰で追い剥ぎから身を隠し、難を逃れたことから、大坂の人達が、灯籠を奉納したようである。
お地蔵さんの顔は磨滅していてよすがを伺うことは出来ないが、輪郭がゆったりして古色を帯びたお地蔵さんである。
訪問日 おばさんが何度も頭を垂れて願い事を聴いてもらっていた、花が生けられ地元人々に非常に大切に守られているようだ。
塙団右衛門の墓
塙団右衛門はどんな武将だったのでしょうか?色々調べてみると 上司と上手くいかない成績優秀な営業マンで辛辣な上司の批評を公衆の面前でやってしまうヤツ 見たいな雰囲気がしました。
随分と冷や飯を喰わされたようで、奉公構いで有名です。夏の陣では、漢の死に場所としての花道を探していたのでしょうか?討ち取られる時に ちっょと待った てな事を云い 辞世の漢詩をしたためてから討ち取られたそうです。随分ロマンチストでもあったのでしょうね。現在に生きていたなら酒好きな職人叩上げの零細企業の豪胆おやじ見たいな人かな?(貰った手形が落ちずにありゃら、見たいな)
この墓は死後16年経った後、紀州の人、小笠原作右衛門と云う人が建てたそうですが、どっしりとしていい姿の墓です。塙団右衛門がどんな人であったのか私には解りませんが、この墓の様に どっしり して 輪郭のはっきりしたおじさんだったのでしょう。
樫井の王子址
樫井の王子址は今となってはその場所がはっきりと解らない、熊野への道では和泉モータス奥の家に碑があるとの説明があった。
古色を帯びた街道
この辺りは往古の街道の雰囲気が残っています。
有名な勇将である。加藤嘉明の家臣として仕え、鉄砲大将として活躍した。嘉明に従って朝鮮出兵にも参加して活躍し、その功績により350石の知行を与えられている。しかし1600年の関ヶ原の戦いのとき、軍令違反により嘉明と対立し、そのもとを去った(一説には、嘉明が自身を重用しないのを恨んで、城門に恨みの漢詩を貼り付けて去ったとも言われている)。その後、小早川秀秋や松平忠吉、そして福島正則らに仕えたが、いずれも旧主の嘉明の奉公構による邪魔が入って長続きせず、一時期は仏門に入っていた。1614年からの大坂冬の陣に豊臣方として参加して活躍したが、翌年の大坂夏の陣で和泉国にて浅野長晟の軍勢と戦って戦死した。Wikipediaより引用

奥家住宅淡輪 重政墓所
17世紀の豪農の家である「奥家住宅」は国指定重要文化財であり美しい白壁に囲まれていました。
奥家玄関脇の泉佐野教育委員会が掲げた高札
     淡輪 重政墓所
近年新しい宝篋印塔が建っていた。
大野治長に従い紀州攻めの一員として加わったが、樫井の戦いで徳川方の浅野長晟軍と戦い討死した。Wikipedia引用
淡輪氏は長男が徳川方(浅野家)・次男重政が豊臣方へ付き、家の保全を図ったのであろうが・・家の保全目的のため塙オヤジと岡部則綱に挟まれながら死地に向かう心情は如何様で有ったのか?
奥家住宅
白壁が美しい
樫井古戦場跡
先鋒争いで有名な戦い樫井戦場の跡地、豊臣軍塙直之と岡部則綱が自分が先鋒だと争い始めた事から足並みそろわず相手方から付け入られた結果 塙さん淡輪さん戦死、部隊は敗走となる。(塙団右衛門が逸ったとの説も有る)

夏の陣が勃発した頃には、形成はほぼ徳川勝利であったので塙団右衛門も死地を求めていたのでは?と思うのは私だけでしょうか。

もう後が無いと考えたときの せめて名だけでも歴史に留めたい と思うのは武将の さが でしょうか。

私のような 凡夫 なら 明日は明日の風が吹く 今日出来ることは明日する てな具合ですから、塙団右衛門のような 濃い生き方には 心動かされるものがある。

豊臣方には優秀な軍事司令官は存在せず(居たとしても「真田幸村のような」実権を渡さず)ママゴトの様な政治とも云えない様なモノを行っていたようです。
樫井界隈
街道散歩の日(06/10/9)の週末は泉州地方では だんじり の祭礼が多く有ったようです。
御花料奉納の礼状に書かれた海老の朱色が秋の空にはえて美しい。

秋の豊作を神に祀るのは太古より続く普遍的な人間心理であり、はるか未来に続く願いでもある。
海会寺跡
海会寺は7世紀に建立された寺で、法隆寺と同じ伽藍配置になっている。
昭和62年に国史跡として指定された。
伽藍の配置等を説明する高札
廻廊跡には、柱を模した鉄製の枠が配置されている。

海家寺の有ったあたりは高台であるので、ここに建っていた五重の塔ははるか彼方の船上からも眺める事が出来たのではないでしょうか。想像を膨らますと遣唐使達は倭国を出帆する際に四天王寺の塔、仁徳稜、遥か遠くにこの海会寺の塔を眺め、旅立った事もあったのでしょうか?
厩戸王子

この厩戸王子のある所は宿場町があって賑わっていたために、ここで宿泊する比較的大きな王子の一つであった。

丘陵の上の見晴らしの良い場所に有ったが、今ではゴルフ練習場が横に建っている、かつては遠く六甲の山並みから淡路島まで見渡せたことであろう。
信達宿本陣
本陣は江戸時代、街道の宿場に置かれた大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊所です。おもに街道の山越え・渡し・分岐点に設けられ、特に参勤交代の往復にその機能を発揮しました。(高札より)
街道の由緒を伝える高札
秋の空に古街道と家並みの白壁が美しいコントラストを醸し出している。
信達本陣跡の詳しいホームページがあります。
(ページ管理者さま宛連絡したいのですが、メール掲示板共に存在せず、リンクフリーとの事なのでご好意に感謝いたします。)


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