三十三間堂(通し矢)



三十三間堂:ここは、後白河法王の離宮であった法住寺殿の端に建てられ、千手観音を千一体もお祀りする寺院で、柱の間が33あることから、一般に「三十三間堂」と呼ばれています。

京都に訪れると必ずと言ってもいいほどメジャーな寺院ですが、かつて此処の廊下の空間に於いて、(2.2m×5m×120m)壮絶な「通し矢」の試合が繰り広げられていました。
「通し矢」というのは、この三十三間堂の西側で、南北に射通すもので、江戸期の絵図を見る限りに於いては、北端に的を置いて南端より撃ち込むようです。

その距離は約120m、江戸時代におこなわれた通し矢では、一昼夜(24時間)の間にこの的に何本当てられるかを競う事が好まれた。

紀州(和歌山)と尾州(愛知)とのライバル意識がもたらしたものか、その競争は過激になって、出展は失念しましたが、試合に負けて切腹した事もあったようです。

慶長年間には1000本程度の記録でしたが、最高の記録となる貞享 3年に於いては、紀州の和佐大八が、 13053本撃ち込み  8133本を的にあて天下惣一の名誉を得ました。この時の大八は齢十八であったそうです。

三十三間堂の裏側通路には通し矢の解説や、和佐大八が奉納した扁額が展示してありました。大きな扁額の仲に和弓を持ち平安風の鎧に身を包んだ大八が描かれていて、その姿は源義経のような若武者でした。

また、その義経のような姿が晩年の彼の苦渋に満ちたであろう人生と重なり感慨深いものがありました。

和佐大八の名を記す書籍に於いては和佐大八とする物と和佐大八郎とするものがあります。ここでは和佐大八とさせてもらいます。

参考文献:現代弓道講座・紀州の伝説
大八は通し矢の最中、的を外す矢が多く、悲観と緊張のあまり、その場に倒れ気を失った。

その時、見物の中から深あみがさ編笠の武士が現われ、大八の射芸をほめて介抱し、隠れていた両腕の悪血を小刀で出して去った。

その後、気をとりなおした大八は、矢を射続け大記録をついに樹立したのであった。深編笠の男は、大八に破られるまで通し矢の最高記録を保持していた尾張藩の星野勘左衛門であったという。

13053本を撃つためには、一本目が的に当たった時に二本目は放物線を描いて空間を移動中であり、射手は三本目をつがえている状態であるそうで、現在でこのような超人的な技は可能なのでしょうか?

文献:紀州の伝説

上は柱に残った矢の跡でしょうか?そうであれば・・兵どもの夢の跡・・ですね。
熊野街道の紀州・和佐王子付近(禰宜)には和佐大八に関係する謂れが多く残っており、また、大八の母親が通し矢成功を祈願した高積神社も鎮座する。

紀州の和佐と云う在所には大八山と呼ばれる山があり、和佐大八 の名は私の想像ですが、和佐に生まれた大八山のような大きな男子と云う意味であろうと思われる。

天下惣一の名誉を得た大八は300石もの禄を得た後、500石の近習にまで出世しました、しかし彼の弟が起した女性問題に端を発し、田辺に幽閉され病が元で亡くなったとも川に身を投じたとも云われています。

和佐の禰宜にはと、田辺市の浄恩寺には彼の墓と愛用の弓が残されていると云う。


和佐大八の大記録以降、通し矢の記録は更新される事はなかったそうです。

幕末に至り経費が掛かる等の問題で、規模も小さくなり明治維新後は弓の兵器といしての役割も終えた事から江戸期のような熱狂さはなくなりました。

かつて命を削ってまで通し矢を競い合っていた事を思いながら三十三間堂を散歩するのも楽しい事かも知れませんね。



  熊野街道 和佐 へ戻る・・・・・・・・・・・熊野街道 田辺 へ戻る      


旅ポケドットコム 予約宿名人




TOP・・・・・・・・CONTENTS


inserted by FC2 system