妙国寺のソテツ(国指定天然記念物

イエズス会宣教師であったルイス・フロイスは中世日本を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった『日本史』(Historia de Japan)。その記録の中に「堺の市民は傲慢と見えるほどに名誉心に富んでいた」とある。

堺は中世より貿易で大いに栄えた港町で、時の権力者との軋轢も多く有り、それに類するする云われのある史跡が沢山存在する。
堺に古くから有る妙国寺には天然記念物に指定された ソテツ が在るが、これもまた 戦国時代のチャンピオン織田信長 絡みの伝説が残る。(矢銭をだせ等、随分困った事を堺に要求したようです。)他に妙国寺では幕末(明治維新)に土佐藩士とフランス軍人が起した 堺事件 の切腹場となった場所でもあり 時の権力と絡む事件の多い場所であり、ソテツは歴史の群像を静かに見つめてきたことだろう。06/11/3



妙國寺の創建
 当山は、正親町天皇の永禄五年(一五六二)当時四国の阿波、讃岐より兵を起して、畿内を支配していた三好家四兄弟の一人である三好豊前守之康公が大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地を開山となられた日攻上人に寄進し、上人の父で堺の豪商であつた油屋常言、兄常祐が協力して此処に常塔伽藍を建立寄進 して、広普山妙國寺と称し、皇室より勅願所と定められました。
大阪夏の陣元和元年大阪落城に際し、豊臣方の将大野道犬は、徳川家康妙囲寺に在りと聞 き当山に乱入諸堂に火を放ち全山灰焼と化したのであります。
再建及び再々建その後寛永五年(一六二八)本堂再建が実現続いて祖師堂、三重塔、客殿、方丈、勅使門、鐘楼、経蔵、書院、徳正殿、其他支院等旧観を再現し永く開山上人の偉業を受継がれて来たのであります。然しながら、第二次大戦の末期昭和二十年七月堺大空襲により再び戦火により殆んど焼失しましたが昭和四十八年秋三たび現在の姿に面目一新再々建されました。
妙国寺パンフレットより転記。
霊木大蘇鉄
 当山の蘇鉄は樹齢千古年余と称せられ、これにまつわる神秘的な伝統を残し、 妙國寺の大蘇鉄として全国に知られています。 戦国時代天下統一を志した織田信長は、その権力を以て天正七年この蘇鉄を安土城に移植したのですが、毎夜「妙囲寺へ帰ろう」と云ふ怪しげな声が城中に 聞え霊気が城中を悩ますに至りました。激怒した信長は士卒に命じ蘇鉄を切らせたところ、鮮血切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く見え、さしも強気の信長も怖れ即座にこの樹を当山へ返し届けたといわれています。枯死寸前の蘇鉄を、日琉上人は憐れにおもわれ法華経一千部を涌し、鉄屑を与えられたところ上人の夢枕に、人面蛇身の神が現れ「供養泰なし報恩のため三 つの誓を立てん、女には産みの苦しみを和らげ、苦難にはその災厄を逃れしめ福運の乏しきものには福徳を授く可し」と誓願し、上人はこの所に御堂を建て当山の守護神として、宇賀徳正竜神と申し今日に至っています。
  (大正十三年十二月国天然記念物指定)
妙国寺パンフレットより転記。
大蘇鉄の種子

訪問時に拝観窓口にてソテツの実を頂きました。
ソテツは一年に数センチしか成長しない植物でジュラ紀(1億5千万年以前)に隆盛を極めたそうである。

ボランティアの方のお話では、玉垣のソテツの奥に親樹がありその樹の樹齢は推定で1200〜1300年だそうで、実を眺めながら1300年の時間を思う時、雄大な時の流れを感じる事ができた。

まあしかし、1000年以上この世に存在しえたと言うことが大した事であり、この慶福にあやかりたいのが人情で、来年は家で発芽させて見ようと思う。
堺事件
 慶応四年二月十五日、大阪天保山沖に碇泊中のフランス軍艦より水兵百余人が ボートに乗り堺浦に上陸物珍しく市内を見物し、神社仏閣に侵入し、驚き怖れ る婦女子を追い廻す等、傍若無人の振舞いをしました。時恰も堺警備隊として妙囲寺に駐屯していた土佐藩士はこの訴え聞き直ちに鎮撫のため現場に至り応 対したのですが、何分にも言葉が通じないため却って警備隊を愚弄し隊旗を奪 はれると云う事態に至りました。事こ々に至り隠忍自重の警備隊も遂に発砲を 決意し、彼我小銃拳銃応酬の末フランス水兵は十三名の死傷を残し退去しました。此の事件は当然国際問題となり、内には旧幕臣各地に策動し、外にはフラ ンスの圧迫を受け余儀なくフランスの条件を受諾賠償金を支払うと共に警備隊 長箕浦猪之吉西村左平次等二十名に切腹を命じ、二月二十三日妙囲寺本堂前に 於て日仏立会役人の面前で堂々と割腹自刃しました。
その凄絶の様は言語に絶 し見るに忍びないものがありました。十一人の切腹を終え十二人目にかゝると 日は既に沈み暮色漸く濃く鬼気人に迫るものがありましたので、立会検視のフ ランス人は俄に退場しましたので残りの九名は切腹を中止し大阪藩邸に移送し 朝議の未土佐へ流刑となりました。
維新草創の際若くして国事に倒れし志士砂なからず、この土佐藩士も潔よく国 に殉じた精神はいつまでも語り伝えられること1信じます。尚当山は勅願寺であつた為埋葬を許可されず止むを得ず向いの宝珠院に埋葬されたのであります。

妙国寺パンフレットより転記




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