西住吉街道

 西住吉街道を知ったのは、図書館で見つけた『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』による、西国街道や熊野街道などのメジャーな街道が記載されているのはもちろんでしたが、名も知らない脇街道等の基点終点が地図に克明に記されていました。
 
 その本を眺めている内に、この街道が十三間堀川の土手ではないのか?との思いに至り、いろいろと調べて見ましたが、この街道に付いての資料は得ることが出来ませんでした、だだしこの川が木津川の延長に伴う江戸期の新田開発の為に開削された事と、大坂南郊と中心部を結ぶ重要な動脈であった様に感じられました。

 休日の午後自転車に乗りながら、かつての産業用大動脈を散策してみました、見事な程 跡形も無く消え去っていた・・と云うのが、この街道を訪問した感想でした。07/2/12


木津川河口部:淀川水系の河口部にて分流し大阪湾に注ぐ、大阪への物資の流入地点でありつづけた、江戸期には北前船が付き日本全国の物産が集まった。

 木津川が大きく登場するのは、石山本願寺と織田信長との木津川口の戦いにおいてで、本願寺側は木津に砦を築いて抗戦していたとの事ですが、その砦の場所は比定されていません。

 ただ地名として出城との音が残っています、地名のみから場所を定める事は困難でしょうが、右図赤線枠辺りに在ったのではないかと?推測される(西成区史より参照)。

 中世においては、出城辺りが木津川の河口部であったようで、西国(毛利)からの兵糧・武器、等の兵站を守備する為に砦が築かれていたようです。

物流の収集点であり戦略上重要な地点であったので、大阪の陣でも戦場となり、徳川時代にには木材商、造船業、荷受運搬業、等で賑わい、木津川沿いに新田開発が行われました。

 現在の西成区(津守)の新田開発を始めた元禄11年(1698)頃、十三間堀川(十三間川)は河村瑞賢により用水並びに屎尿船通船のため、中在家浦(粉浜) まで開削されました。

 宝永元年(1704)大和川が付け替えされた時に、中在家から大和川まで延長された、十三間堀川の岸には松や柳が植えられ風情があり、住吉大社参りに船場の旦那衆が船をしたてて川を上り下りしたそうです。

 西住吉街道の資料は殆ど見つける事が出来なくて、唯一大阪市土木技術協会・大坂都市協会、発行の『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』にルートの基点と終点のみが記載されていました、同書によると街道はどうやら十三間堀川のどて沿いの道であったようです。

西住吉街道
出城公園:木津砦跡の場所は不明ですが、出城との地名が残るのみ。 海の玄関口碑:十三間堀川のかつての分流点辺りの公園には、江戸期の俯瞰図をリレーフにしてあった。
琴江橋跡:この辺りから十三間堀川が分流し粉浜方面へ流れていた。 琴江橋跡から南を望む:南海汐見橋線には十三間堀川に架かっていた橋梁が残っている。
西住吉街道起点:『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』には西住吉街道の基点はこの地点となっている。 かつての十三間川(十三間堀川とも):十三間堀川は今ではほぼ埋め立てられ阪神高速堺線の橋脚が立っている。
旭3辺りの町屋:少し脇に入ると古い町屋が残り風情があるが、急速に建替えが進んでいる。 津守商店街:少し寂れた感じで寂しい限りです。
南海電車踏み切り:ここでまた汐見橋線と再開します。ここより2キロほど南側は千本松と云う在所ですが、かつては木津川の河口部にあたり、川が運ぶ砂が砂州を作り、その砂州の上に松が茂り風向明媚であった事から千本松の地名が付いたそうです、今では想像する事が難しいくらい開発が進みました。 津守神社:津守新田の開発の際に勧請されて創建された神社、津守新田はかつて北島と南島に別れていて、その堤敷にあたる場所に鎮座すると云う。(敷津浦発展史より)
粉浜西2辺りの分岐この辺りから川を離れて住吉大社方面へ向かいます。開削当初の十三間堀川は住吉川辺りまで在ったのでしょうか? 住吉方面(東方向)へ向かう:微妙にカーブしていて街道らしい道。
粉浜3辺りの町屋:古い町屋は急速に無くなって行く、古いものが少なくなるのは少し寂しい。 粉浜商店街合流部粉浜商店街の起源はいつの頃だろうか?大社の門前町として発達した事は容易に想像できるので、相当な歴史があるのでしょうね。住吉・住之江の住人は(主婦)、ほぼ100パーセント知っている商店街でしょうね。
住吉街道(紀州街道)合流点:街道は紀州街道へ合流し終点を迎える。 大社前のお店:紀州街道沿いのうなぎやさん、いいにおいを出しています。


十三間堀川延長部
延長部、住之江区役所前:十三間堀川は現在では殆ど埋め立てられかつての姿を想像する事すら難しい。ここはかつての面影を残す部分ですが、改修が施されています。 延長部・北島交差点辺り:この辺りは河川らしい姿が残る部分です。
延長部、緑道公園部分:北島交差点から大和川にかけては河川公園として整備されています。
夏場は近所の子供達の格好の遊び場となっています。
延長部、大和川取水点:阪神高速堺線と大和川の交差部辺りに十三間堀川が合流していた、開削当初の木津川から中在家(粉浜)辺りまでの流路の頃は木津川から粉浜へ向けて水が流れて(南流)いたそうですが、大和川まで延長されてからは大和川からの砂の堆積により、流れが北流するようになったそうです。


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中在家(粉浜)周辺
 西住吉街道の終点部中在家(粉浜)付近は住吉大社に隣接し、古くから人々が暮らす場所であり、史跡や古い街道等が散在していて魅力的な町です。。

帝塚山古墳@:大阪市内では御勝山古墳帝塚山古墳の二つが特に有名です。 帝塚山古墳A:かつて上町台地上には沢山の古墳があったようですが、昔から人口過密地帯であったので、相当数が破壊されたのでしょうね。
粉浜の文具店:ものすごく懐かしい雰囲気の文房具店。 閻魔地蔵尊:道の辻に有る地蔵様大事に祀られてありました。
阪堺電車沿いの道:かつての道の雰囲気が残ります。 住吉大社北の坂:ゆったりと登る坂。
住友灯篭:住友家は別子銅山で富を得た、粗銅は別子より船で大坂へ運ばれ精製され竿銅として海外へ輸出された。
住吉神には表参道に石灯籠を沢山奉納している。
長狭橋へ到る参道:住吉大社は西向きに鎮座されている、その参道は現在の住吉公園を通過して西の海へ向かっていた。
住吉名所図会を眺めると、その海で潮干狩りを楽しむ人達が描かれている。



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