奈良街道 (高麗橋〜牧岡)




 タイム 
 
高麗橋:奈良街道の起点については、玉造がそれにあたるようですが、今回は江戸期に大坂の玄関口として整備され明治期に道路元標が置かれた高麗橋から歩きました。 この辺りはかつて薬業で栄えた町であり今でも多くの製薬メーカーが軒を連ねている。
しかし近年は製薬メーカーの本社部門の東京移転が相次ぎ空いた土地には高層マンションが建っている。
高麗橋を出て大阪城の方向に歩みを進めると緩やかな坂に出くわす、上町台地の登頂に向かっての坂である。
大阪にあっては上町台地に向かっての道でしか坂道は存在しないと云っても過言では無いくらい、坂道の存在は珍しい、太古に於いてはこの辺りが渚線であった事だろう。
やがて道は   辺りで熊野街道と併走する、江戸期に於いてはこの辺りから、伊勢参りの参詣人や紀州街道を南下する旅人や道修町辺りの薬問屋から奈良のお得意さんへ商いをする商人などで賑わっていたのでしょうね?
まあ今回は道修町の薬問屋の手代が、奈良の卸先へ売り掛けの集金に伺った時の想定で歩きましよう。
江戸時代から奈良街道が人の往来も盛んとなり、この街道の起点であった玉造に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられ、旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。茶屋が二軒あったところから“二軒茶屋”といわれ世に広く知れわたりました。(現・大阪市顕彰史跡)。
 この二軒のそばを流れていた猫間川(ねこまがわ)に宝永8年(1711)に幕府の命によって橋が架けられたのが“石橋”です。正式には黒門橋というが、この附近にあった大阪城の玉造門が黒い門であったところから黒門橋と名づけられ、この橋が大阪では当時珍しく石で造られたものだったので通称石橋と呼ばれています。
玉津橋
 平野川は、奈良朝より平安朝にかけて百済郡が置かれ、その中央を流れていたことから、古名「百済川」と呼ばれていました。
 また、猫間川の名称の由来についても、一説には百済川に対して高麗川(こまがわ)と呼ばれていたのが、訛って猫間川と呼ばれるようになったと言われています。古代の大坂は、渡来文化の窓口としての役割を果たしながら発展してきました。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)ほか二柱を奉斉する旧大今里村の氏神で、用明天皇2年の創建と伝えられます。石山合戦の際、兵火にあいましたが再建され、元和(17世紀前期)以降大坂城代就任と領内巡視の時は、必ず社参することを恒例とした社で、熊野権現と称し、明治5年(1872)に現社号に改め、同44年(1911)旧東今里村氏神八剣神社を合祀しました。
火袋式道標
大阪高麗橋を起点として西から東へと通じ、暗越と呼ばれるように、生駒山系の暗峠を越えて奈良に行く最短コースの街道だったころから、この名称の由来があります。この奈良街道が開けないその昔は、大阪から奈良へは日本最古の国道である竹の内街道が唯一のもので、奈良街道よりはるかに長いコースでした
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