高 野 街 道(丹生都比売神社〜奥之院A)


いよいよ高野山の中心・根本大塔へ至る。
中心であるからに、奥之院からも大塔に向かい36町の町石が置かれている。根本大塔の東に奥之院側からの町石が一町で終了している、それに沿って奥の院への道を進む。   08/9/27


根本大塔:言わずもですが、高野山の中心ですね、中には当然大日如来がおわしました、高野山の中心でありますね。
御影堂:奥之院御廟と共に、信仰上も大変重要な建物なのです。一遍上人絵伝を見ると高野山の項にしっかりと書かれておりました。 金堂:昭和7年に再建された鉄筋コンクリート製で在るそうですが、ゆったりとしたいい建物ですね。
准胝堂:訪問時には僧侶の昼の勤行が行われていました。統率が取れていて高野山が修行の場であることを感じました。 根本大塔:僧侶の声明が響き渡り辺りは荘厳な雰囲気になります、観光客もこの時は歩みを止めて見入っています。
奥之院からの町石:奥之院から根本大塔へ向かって町石が36個立っているそうです、ここ高野山の中心であるのですね。 大会堂:鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王というお方が、父帝の追福のため建立されました。
三昧堂:傳燈国師真然大徳建立の真言院の跡といわれる場所で、西行もここで修行をして30年以上在住し京洛に出かけて勧進をしたと伝わる。 東塔:白河上皇の御願によって大治2年(1127)建立されたもので、現在の建物は昭和59年(1984)、残されていた図面を参考に再建されたものであるそうです。
金剛峯寺 山門:金剛峯寺と観光パンフレットに書かれている建物は、金剛峯寺主殿や奥殿を指し、総本山金剛峯寺寺務所と高野山真言宗宗務所を兼務している。いわば真言宗総本山のオフィス・ビルが金剛峯寺である。 金剛峯寺 主殿::高野山内117の寺院の本坊であり、日本全国真言宗の総本山である。
 桧皮葺の大屋根が重厚な建物、最重要人物をもてなした所だけに、すばらしい建物で、襖絵やは必見ものです。
山上の国道を歩いていますすと、なにやら不思議な張り紙が・・仙道呪術・とか、まじない秘法とか、本屋さんであるようですが、不可思議な店でした。引き戸を開けて入りたい衝動に駆られながら、先を急ぎましたが、入っとけばよかったな。 で、山上には陀羅尼助(高野山版)の看板も沢山あります。
風に吹かれてくるくる廻っていました、外人さんが店の中でなにやら覗いておられましたよ。
刈萱堂: 今から800年余の昔、14歳の石童丸は出家した父の苅萱道心を慕って母千里(ちさと)とともに高野山への旅に出た。
後のストーリは有名なので割愛、いま流行の韓流ドラマのモチーフとされている、生き別れ・死に別れ・病苦・などの原型であろう。
アジアでは普遍的なものでしょうか?おしんとかもアジアではすごく人気が有りますよね。
国道の標識は高野町高野山となっていました。
この盆地の中心は正確には何処であるのか僕は知らないが、この辺りが中心だ・・とでも高らかに宣言している様な標識で、刈萱堂の前辺りでもありなんとなく納得してしまいそうな場所でした。
一の橋:いよいよ奥之院への道、一の橋に来ました、異界への橋ですね 一遍上人絵伝が書かれた頃にはすでに、廟所と灯篭堂があり、参道の脇には沢山の卒塔婆が描かれています。 奥の院側からの町石:廟所前から根本大塔までに36町に一町毎に石が置かれていたそうです。
参道:参道は独特の雰囲気で平地より気温が低い山内にあって、更に肌寒さを感じる空間であった。 弘法大師が、ちょっと休憩にと、腰を掛けた石とであるという言い伝えがあそうです。
大名の供養塔:参道脇には多くの大名家が競い合う様に大きな五輪塔を建立している、小さな物でも3メーター程・大きなものは10メーターは在ろうかと云う大きさだ。 大名の供養塔:江戸期に描かれた名所図会を見たときに、五輪塔の組み立て前の石を大勢の男達がコロと大綱で、高野に至る道をそれこそ死ぬような形相で引き上げている図柄があった。
大層大金が掛かったはずなので、大名墓の建立は世間様へのパフォーマンスの意味合いが大きかったのでしょうね。
徳本碑:参道を歩いていると見慣れた字が・・ややよく見ると徳本碑ではありませんか?花押も入っていて、どこかの徳本講が建てたものでしょうか? 大木の根元には古い五輪塔が壊れて水輪の辺りが根に取り込まれようとしていました。
古い木の切り株がうろになっている。そこにも地蔵が祀られ高野槙が手向けられている。 古い一石五輪塔が倒れてコケに覆われ地に還ろうとしていました。
覚鑁坂:←覚鑁と言う難しい漢字が変換された事に少し感動しつつ・・奥の院参道の、中の橋を渡ってすぐさしかかる石段は、覚鑁坂と呼ばれている。途中で転ぶと3年ともたないとか。そのために、ここの石畳は42(死に)を越えるという意味で43段になっている。
覚鑁さん・高野山を追い出されて根来寺を開かれた方ですから、あまりいい話のモチーフになっておりませんな。
水向地蔵:御廟橋がかかる川は玉川(たまがわ)と呼ばれる。玉川は霊峰揚柳山から湧き流れる神聖な川で、禊の場となっていて遥か下流は有田川に至る。
水行場と御廟橋の間の玉川に背を向けて地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩などが安置されている。これらを総称して水向地蔵(みずむけじぞう)と呼ばれ参詣の人が絶えない。
御廟橋:いよいよ弘法大師のおわします奥之院への最後の結界御廟橋へ至ります。
大師は今でも生きていて、禅定の姿で衆生を見守っているとの信仰がある、ここから先は聖域中の聖域となり脱帽・撮影禁止・録音禁止、となる。
燈籠堂で個人的な祈祷をお願いしました。
体躯の立派な御坊が受付をしていて、中世の僧兵はこんな雰囲気だったのか・・と思わせる迫力のある空気を有していました。
わたしの祈願書を見ながら住所の確認をしながら、燈籠堂を訪れる人々を観察していて、帽子を取り忘れている人を見つけると、張のあるバリトンで「お帽子を取ってくださいー」と有無を言わせぬ声を響かせていました。
護摩堂:御廟所をでて戻ってくると護摩堂辺りに出る、横には休憩所となる御供所や納経所がある、参拝した人達が思い思いに休んだり・納経したり・ご朱印帳に朱印を書いてもらったりしている。 無縁塚:奥之院にあった無縁仏を集めて祀った塚があった、多くは古い一石五輪塔でありましたが、これを背負って高野への長い道のりを歩いて来た人々の想いとでも申しましょうか?人々の願いと希望とでも申しましょうか?・・非常に強い印象を持ちました。
私にとっては高野山のイメージは御廟所とこの無縁塚に集約された思いがしました。さすが世界遺産ですね。
吽形像:運長が造立したことが判明しているそうです。高野山への道これにて吽としましょうか。
高野街道(丹生都比売神社〜奥之院@)


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