高 野 街 道(河内長野〜橋本)


2008年夏・暑いです、先日に続いて巡礼道・高野街道を歩きます、暑かった3L位水を飲んじゃった。  ルート    08/8/16




現在の道標: 駅前のアーケード前には現在の道標があった。 吉村邸楠:街道を駅前から南下するとすぐに大きな楠が視界に入る、市の指定天然記念物になっている吉村邸の楠である、大きく枝を伸ばして元気です。
西条合資会社:この建物は主屋、土蔵が国登録文化財 として指定されています、天野酒の蔵元として 享保三年(西暦1718年)より続いているとの事です。 石川:滝畑ダムを源流部に持つ石川を渡る。
烏帽子八幡宮:烏帽子形山の東麓に位置する烏帽子形八幡神社の社殿は国指定の重要文化財。神社のある烏帽子形山は中世の山城跡でもある。  三日市の町並:いい雰囲気の町屋が続く。
白漆喰のむしこ窓に魔よけの鍾馗(しようき)でしょうか? 八里石:三日市の駅を過ぎると石見川に架かる橋の袂にあった。
夏の花アサガオが元気に咲いている。 天見川沿いの遊歩道: 美加の台辺りから天見川に添う形で遊歩道や地道が天見駅辺りまでトレースできる。国道は車が多くて危ないので側道をつないで進むこととする。
稲穂の中の高野線:棚田の風景の中を高野線は行く。 岩瀬の棚田:岩瀬辺りは棚田が美しい風景を作り出している。夏の青空に稲穂の緑が映える。
七里石: 七里石を撮りたいので国道に出ましたが、これが歩道が無くて怖いの怖くないのて・・すぐ横を50km/h位で通られるとちびるね。
用事が無い人は出来るだけ天見川沿いの遊歩道や地道をつないで歩くことをお勧めします。天見駅南の「合いの辻」辺りまで側道だけで歩けるようです。
変電所: 今は使われていない変電所。
旧国道分岐: トンネル手前で右に旧国道が分岐している、旧国道は車が利用することが少なく荒れた感じの道になっている。 紀見峠旧道:この道は都市計画道路 高槻橋本線として事業化され、1969年(昭和44年)に国道170号として開通。1982年(昭和57年)4月1日に国道371号に指定替えされて現在に至る。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今でも朽ちた国道170号線の標識が残る。
紀見峠:ここが河内国と紀伊国の境目「紀見峠」昔は番所があったそうです。番所跡を示す杭が建ってあった。 紀見峠六里石:峠には六里石と高野街道の説明リレーフがありました。ここまでくれば行き先が見えてくるのでほっと一息です。
峠の町並;紀見峠はかつて宿場でもあった、現在もかつての面影があちらこちらに残っていた。
写真奥のトタン屋根の家は茶店を営業されている。
高野山を望む: 峠を下ると遠く紀伊の山々の重なりが棚田こしに見える、かつての旅人もこれから尋ねる高野山や熊野三山を思った事だろう。
橋本は柿で有名なところです、和泉山脈の南斜面では柿が沢山栽培されています。 五里石: 国道に出てしばらく南下すると五里石がある、古い墓とかがあって少し気味が悪い場所でしたな。
路傍の地蔵: 清恭寺を過ぎて、街道は国道から分かれる。
狭い道には地蔵などが点在する古い町並みが残っている。
JR高架下: 街道はさらに南下して南海電鉄とJRの下をくぐる。
JRの高架には高野街道のリレーフがあった。
大和街道道標(東家辻の道標): 大和街道との交差部には大ぶりな道標が建っていた。この後左の狭い道を南下する。 四里石:狭くて風情のある道を南下して吉野川の堤防に突き当たると、四里石が草に埋もれてあった、向かいには常夜灯がある。
東家渡場大常夜燈籠:東家常夜大燈籠の説明・・高野街道は京・大坂・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山の慈尊院から町石道を登った。その後、御幸辻から南下して当地に至り、紀の川を渡って学文路から高野山へ登っていく道が開かれ室町時代後期にはもっぱらこの道がもちいられるようになった。
橋本の地名の由来になった橋は天正15年(1587)に応其上人によって架けられたが3年後に紀の川の増水によって流失し、舟による横渡が行われるようになった。
その紀の川北岸渡場にあったのがこの大常夜燈籠である。
この石燈籠が建てられたのは文化11年(1714)で、長く「無銭横渡」の渡場を伝えてきたが、その後、河川改修のため現在地に移築された。元は同型の燈籠2基が相対して建てられていたが、うち、1基は紀の川の洪水により流失した。
台座四面の銘文によると阿波国藍商人の連中をはじめ、京都・難波、堺の商人および和歌山んの川舟仲間ほか多人数の講社・信者の浄財によって建てられたもので、当時の弘法大師信仰の広がりと、かつての紀の川渡場の賑わいを今に伝えている。
平成14年3月 橋本市教育委員会 東家区

掲示板より。
今は住宅地に取り込まれ少し寂しげな場所にありますが、近代以前は渡し舟に乗る人たちが沢山いたのでしょう。
橋本はかつては伊勢参り、高野参りの街道交差点として、また紀の川を利用した舟運物資の集散地として栄えたようです。 掲示板 を眺めるに、当時の賑わいぶりが伝わってきます。

紀の川:紀の川に至り高野山の方向を眺める。
本町商店街: 東家辻の道標から道を東にとり、松ヶ枝橋を渡ると ほんまち商店街 にいたる。
この商店街はかつての大和街道(伊勢街道)で近世のメインストーリーですね、現在は眠ってしまったような印象でしたが、戦災を逃れた事と物資の集散地であった事や、この街を開いた応其上人の手腕による塩の専売権と永代諸役免除を江戸期に於いても既得権として認められたことによる富の集中があり、すばらしい町屋が多数残っていました。

緩やかに曲がった街道や、少し横道にそれると迷路が広がる街は非常に魅力的で懐かしい感覚に包まれる街でした。

この街も再開発の構想があるそうです、どんな開発になるのかは部外者の私には判りませんが、地方都市にありがちな、まっすぐな道路とコンクリ製の建物と言う味気のない開発であれば誠に残念であります。
橋本市まちかど博物館:橋本で1495年(明応年間)創業され現在も営業されている みそや呉服店 の別館として明治17年に京都から大工を招いて建てた町屋、京風表屋造をたくみに縮小した形式で、国登録の有形文化財の指定を受けている。
訪問時は休館日で見学できず残念です、引き札(古い広告)のコレクションが秀逸で次回に訪問しよう。

開館時間/10:00〜16:00
休館日/土・日・祝日 
※閉館日でも事前連絡にて開館可
問合せ先/橋本市まちの歴史資料
保存会(みそや呉服店)
t0736−32−4000
かつらぎ街パンフより、http://www.town.katsuragi.wakayama.jp/K/images/walk1.pdf
こちらの主屋は享保六年(1721)の建築で和歌山県でも最古級に属するそうで、国登録の有形文化財の指定を受けている。ゆるくカーブした商店街(大和街道)には思わず写真を撮りたくなる民家が点在している。
※街道の日本史35参照

火伏医院を過ぎて商店街を歩いていると、盆の頃でもあり、小さな子供を抱いた若い母親が大きな荷物を車のトランクに詰め込んでいた。
60代とおぼしき老夫婦がそれを手伝いながら子を抱く娘に何かを話しかけている、ここから数百キロ離れた他府県のナンバーを付けた車の後ろに子と母親が乗り込んで、ゆるゆると車が進んだ。
やがて車は狭い路地を曲がって見えなくなった、老夫婦は何時までもその車が曲がって消えた先を見つめて、少し悲しそうな目で家の中へ入っていった。
街道から少しそれると迷宮のように入り組んでいて、ごらんのような木造三階建ての家屋があったりする。
今はてんぷら屋さんのようですが、かつて旅籠でもされていたのでしょうか?
市街はラビリンスが連続していて散策するのに飽きない、スクーターに乗ったおばさんとか、郵便局の人たちが走っていました。 戦災を受けなかった街は近世の建物と曲がりくねった路地が組み合わされた魅力のある街です。
こちらは病院です、現在もされている様子で、塀の中には新しい建物が建っていました。
部外者のたわごとですが、この街は開発のしようによっては、関宿 なみのすばらしい街が再現できるでしょう。
再現されたすばらしい町並みを空想しつつ、橋本の街を後にした。
橋本駅です。この街も再開発を計画している様子です。まっずぐな道を「つけて古い家は新しいものに立て替えて・・そして古い事は記憶の底からも消えてしまうのでしょうか?

それとも今・はやりつつある町並み再現を見事に成し遂げるのでしょうか?
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