高 野 街 道 (京大坂道)不動坂


 高野山への巡礼道は、大きく分けて7つがあり、「高野七口」とも呼ばれています。 中世のメイン道路は九度山慈尊院から大門へ至る「町石道」が有名です。
 また、橋本、学文路から 河根を経て神谷(かみや)へ至り、極楽橋から不動坂、高野山へ と登る「京大阪道」と呼ばれた裏参道は、明治から昭和にかけてこの道が最短距離であることから賑わいをみせた様子です。
道は学文路から女人堂まで一本調子の登り道で、河根から西郷集落までの勾配がきつくなかなか疲れる道であった、この近世から昭和初期にかけてのメイン街道であった京大阪道を旅する。       ルート 08/12/30




 タイム 
 学文路駅
7:33
学文路駅です学問に通ずる路と言う語呂から、学業守りとして入場券に人気がある。 学文路駅から東に200メーター程の地点に宝暦8(1758)年製の道標がある。ここから南へ斜面を登る京大阪道が始まる。
西光寺
7:45
戦前まで大変メジャーな物語として語り継がれた石堂丸物語、夫婦親子の別離の哀話をモチーフとした普遍的テーマを題材とした寓話です。

物語で登場する石堂丸とその母親が泊まった宿が玉屋であったそうだ、その玉屋の跡が街道沿いの民家先に掲示されている。
石堂丸(苅萱)物語は高野山の女人禁制の掟から生まれた悲劇で、中世以後、高野聖によって世間に広められ、江戸時代には、説教節や浄瑠璃、琵琶歌となって広く世に知られた。
今流行の韓流ドラマのモチーフの原型のような物語で、世界的にも同様な物語は多くあり、離別の苦しみは、洋の東西・老若を問わず受け継がれているようですね。
早咲きの菜の花の越に遠く和泉葛城の山並がかすんで見える。 街道に沿った社には灯明が灯り、常夜灯にも灯が入っていた。
河根丹生
神社
8:34
峠を越え、しばらく道なりに下ると高野下・河根丹生神社方面への分岐が現れる、古くからの街道の名残か?古い道標が残っている。
写真(北向きに撮影)
河根丹生神社は昔の神仏習合の様子が残る神社ではなかろうか?  によると、永正15年(1517)の棟札が残り石造狛犬一対能面等は和歌山県の文化財指定を受けている。
元本陣・中屋旅館
江戸時代に栄えた東高野街道河根宿の本陣で、 身分ある人たちの宿泊、休憩所となり、今に残る 乳門と上段の間は、そのころの遺構として貴重な存在である。
 上段の間(書院)は、明治四年二月二十九日、 赤穂藩士村上兄弟一行七人が明日こそ父の仇を 高野山のふもとで討ちとろうと、夜遅くまで密議をこらしたところで、昭和十一年県の史跡に指定された。
掲示板記載
九度山町文化財旧高野街道里石(二里道標石)
京都と高野山を結ぶ参詣道路を高野街道(京街道)と呼び、平安時代末から鎌倉時代初期に開かれ、高野聖の納骨や庶民の参詣道として栄えた。また、堺から河内長野を経て高野山を結ぶ参詣道路を西高野街道と呼び、江戸時代になって堺の全盛期を迎えて盛んになった。
 この街道が、郷土の歴史を知るうえで、永く有形文化財として保存する必要があるので指定した。
平成元年二月十六日 九度山町教育委員会
掲示板記載 
千石橋
8:43
千石橋は寛永11年(1634)に幕府によって橋が架けられ、その修理費として1000石支給さて手いた事からこの名前が付いたそうだ。 千石橋の架かる丹生川は透明度が高く夏の川遊びには最高でしょう。
この辺りは玉川峡の一部で紅葉の名所でもある。
仇討墓
9:57
千石橋を渡ってから舗装はされてはいるが非常に勾配のきつい坂を延々と登る、道沿いに残る廃屋が取り壊された跡が侘しさを誘う。 ここから数百メーター河根側の黒岩付近で、日本で最後のあだ討ちがあったそうだ、該当場所には掲示板があり詳しい説明がされていた、あだ討ちされた側の七名六基の墓が街道脇の奥まった所に祀ってあった。
神谷
10:06
神谷集落に至る峠部に一里石とその他の道標があった。
神谷は山の尾根道に沿ってあり、たくさんの旅館や店屋、長屋、髪結屋などがひしめきあって建っいた様子です。
 昭和4年の南海鉄道の極楽橋までの開通を期に「日が昇ると銭がわく」とまで言われた神谷の隆盛は終わりを告げた。今でも屋号が軒下に残る建物があり、往時の面影がかすかに残る。京大阪道は高野参拝の帰り道として利用される事が多かった様子で、精進落しで破目を外した旅人も多かったのかも知れない。
御成婚記念道程標::昭和天皇のご成婚の際に建てられた道標でこの頃はまだ基幹街道として利用されていたのだろう。 右これよりくまの道と刻まれた道標地蔵:神谷に集落の中にあった道標地蔵には、くまの道を示す物があった。近世には熊野を目指す場合に最短である小辺路を利用する場合も多数あったようです。
極楽橋
10:39
極楽橋:神谷集落から分岐した道を高野線に沿って下る、時折線路を走る電車の車輪が軋む音が聞こえてくる、分岐から10分程下ると極楽橋駅が見えてくる。 不動坂のはじまり:極楽橋を渡るとコンクリート製の石畳がひかれた高野坂は始まる、極楽橋駅から数人のハイカーが坂を登り始めていた。
ケーブルカーを下から見上げる:下から写真を撮っていると中の人が物珍しげにこちらを眺めていた。 不動坂は良く手入れされていて、バラス状の物がひかれている様子で、歩いていても足に優しく凹凸も少ない歩きやすい道であった。
古書に、「谷は数千丈ばかりにして底がなきがごとし」と書かれている断崖絶壁です。江戸時代重罪人が手足を縛られ、ここから追放されたので、「萬丈転がし」とも呼ばれていました。  掲示板
聖地と言えどもそこは人間世界 罪を犯人も居たのでしょう。
実際にはこの場所ではなかったようです。
右側は50メータ程は在ろう崖になっている、ここを簀巻きにされて落とされたらほとんど助からないだろうな・・
消極的な極刑といえそうですね。
清不動堂
11:33
一心院谷不動堂の南にあった不動堂を「内不動」と言うのに対して、この不動堂は「外不動堂」と呼ばれていました。元の本尊不動明王は弘法大師御作だったとの伝承があります。現在の御堂は消失後再建されたもので、古くは一心院谷女人堂から約1800メーター下の位置にありました。
掲示板
この辺りから雨がパラパラ降ってきた、高度も上がり前日の雪も沢山残っていて、気温も下がって辛い事になって来たので、ここで弁当を食べて一休みした。
霙に近いような氷雨が降る中お堂の廊下に座って弁当を食べていると江戸時代に居るような感覚になってくる。
花折坂には石仏と供養塔がある、その傍らには西国か四国を結願した人が納めた菅笠が置かれていた。 花折坂の登りテニスコートを過ぎると女人堂はもうすぐだ、大きな木には蔦が絡まり霊山の雰囲気が高まってくる。
女人堂
11:59
学文路駅を出て、四時間少々で女人堂へ到着、この日(08/12/30)は晦日でもあり参拝者はあまり見かけなかった。
氷雨の中無人の山中を歩いてくると、お堂の明かりと暖がありがたい。
高野山の結界:明治明治5年までここから中への女性の立ち入りは禁止されていた。
最初に高野山で永住した女性(萱野イチノさん)は寺側とずいぶんバトルを繰り広げたようです。
徳川家霊台12/27〜 1/4迄、拝観は無料。おおラッキー・・徳川家康の霊廟へ訪れました、家光が建立せしめた廟は重要文化財指定を受けていて、さすがに創業将軍だけに見事なものです。 昨日降った雪が残る山内で灯明が燈っている、寒々とした山上にあって灯明の灯は見るものの心をどこか暖かくする。
大伽藍(大塔)12/27〜1/5迄、拝観は無料。ラッキーついでに根本大塔を見学。 金剛峯寺(本坊)1/4迄、拝観は無料。
国宝不動堂:鎌倉時代の書院造りの形式で、明治41年に、解体修理が施され、その際に、一心院谷から 現在の地に移築された。 高野苅萱堂:いつも参拝客で賑わっていますが、晦日の為か静まりかえっていた。
奥之院への参道脇の常夜灯には灯がついている、その間をパラパラと参拝客が奥之院へ向かう。 子授け地蔵とされる二体の地蔵にも灯明が燈っている、ろうそくの灯に揺らめく地蔵は参る者を見つめているかのように思えた。
大ぶりの地蔵(安産地蔵尊)にも灯明が入り揺らめいていた。 いよいよ弘法大師がおわす奥之院です、いつもなら多くの参拝客がそれこそぞろぞろと歩いているのですが、晦日のこの日は人影も少なく鬱蒼とした杉木立の中参拝できました。
もう逢えない人々の供養を願い、営々と繰り返された人々の願いと思いがここにあった。
雪をかぶり、仏や塔達は少し寒げではあったがどこか誇らしげでもあった。
四国か西国を結願されたらしい夫婦が労わりながら護摩堂へ参っていた。灯明をあげ、読経したあと寄り添いながら護摩堂を後にしていた。


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