孝 子 越 街 道 A
鳥取之荘〜考子
鳥取ノ荘を過ぎた街道は泉南の田園風景の中を進む、古墳や寺社を眺めながら戦国期の謂れの多い地域を通過する。 深日にて谷川街道と分岐した街道を孝子峠へと歩く、紀州はもうすぐ目の前にある。 ルート 08/1/6 |
貝掛辺り: 泉南の田園風景が広がる。 | 貝掛辺り:街道沿いに古い町屋がぽつぽつ残る。 |
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指出森神社:その昔には応神天皇を祀る神社であったそうです。境内には明治三年製の立派な道標が移されています。 | 加茂神社:かつてはこの辺りは京都上賀茂神社の荘園があっそうで、賀茂神社があります。本殿は、流造檜皮葺の安土桃山時代の物で大阪府指定文化財になっています。 |
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お昼寝わんこ:この日は小春日和で暖かくわんこが昼寝をしていました。 | 岬町へ:大阪府最南端の岬町へと入ります。 |
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宇度墓古墳:5世紀後期の築造といわれています。淡輪ニサンザイ古墳とも呼ばれ、垂仁天皇の第2皇子五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の陵墓と伝えられています。宮内庁管理の古墳で柵が設けられています。 | 西凌古墳:紀小弓宿称(きのおゆみのすくね)の墓ではないかといわれています。紀州へいたる海上交通の重要地点なので、紀氏の重要人物ではないか?との意見もあるようです。 |
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灰賊峠:天正10年織田信長は本願寺勢を討つために彼の三男信考に軍勢を南下させた、この峠に差し掛かり本願寺勢との戦闘を開始したがしばらくして急に退却を始めた。 信長軍には、本能寺での光秀謀反の報が入り急ぎ帰京下との事。 ※堺・泉州第七号参照しました。 |
国玉神社: 深日も京都上賀茂神社領であったので、合祀された本殿はかつての加茂社のものであるとの事。 |
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深日行宮址:続日本紀」に、「765年、称徳天皇が紀伊国からの帰りに、深日行宮に至った」との記述がある。その仮の宮跡がここではないかとされる。 | 深日変電所:1911(明治44)年の竣工で現役稼動する南海電車の変電施設赤レンガ作りがなんとも美しい。 |
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橘逸勢の墓:嵯峨天皇皇后橘嘉智子のいとこでもある。書に秀でており、空海・嵯峨天皇と共に三筆と称されている。 承和の変(842)で捕らえられ、伊豆に琉配される途中に遠江で病死した、娘はその遺骨をこの地に葬り、墓を守りこの地で生涯を終えたそうです。 孝子の地名はそこから発生したそうです。その娘の墓が線路をはさんだ反対側にあるらしいのですが、見つけられませんでた。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
孝子駅近くの街道と道標:かつての街道を彷彿とさせる古い道にアスファルトが舗装されています、その道の脇には明治7年製の道標がありました。 |
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孝子観音(高仙寺)への道標: 孝子駅を越えて100m程過ぎた踏切を東に入るとこの立派な道標があります。今では孝子観音はあまり有名ではないようですが、往時はかなりの参詣者で賑わっていたのでは無いか?と想像しました。 | 孝子駅:引き返して 無人駅の孝子駅から帰阪します。 |
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