紀 州 街 道 B


岸和田〜泉佐野

 城下町の佇まいを残す岸和田を後に紀州街道は南へと進む。
繊維の古い工場群を通り中世の宗教都市として栄えた貝塚を経て泉佐野へと向かう、そこから熊野街道と合流し雄ノ山峠を越えて紀州へといたる。
泉佐野からは海岸沿いに南下し孝子峠を越える孝子越街道が分岐している、こちらの街道は海を眺め、南国の日を浴びながら古墳群の間を抜ける快適な道である。 コース 07/10/21〜08/1/4 






岸和田本町郵便局:珍しい古いタイプの郵便ポストが現役で使われていました。 こなから坂:だんじりがこの坂を駆け上がり城に向かって豪快なやりまわしを行います。
本町の町並:本町辺りは岸和田市が積極的に町並み保存されています、いい感じの町並みが残っていました。 本町の町並:こちらは電気屋さんのようです、新しい建物のようですが、古い建築様式で建てられています。いい感じでですね。
蛸地蔵(天性寺):天正年間(1573〜86)、岸和田城は根来・雑賀衆に攻められ、落城寸前でした。その時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ、凄まじい勢いで敵兵をなぎ倒し、城の危機を救いました。その数日後、城の堀から矢傷・玉傷を無数に負った地蔵が発見され、城内に大切に収められました。文禄年間(1592〜96)からは、天性寺内にある日本一大きな地蔵堂に移され、今に至っています。
 境内には一切蛸を食べずに願をかける、風変わりな蛸絵馬が無数に奉納されています。また、参道入口左側の石標「たこちそう」の字は、江戸時代の書の大家・池大雅の書であると伝えられています。 岸和田の観光パンフレットより転記しています。
天性寺扁額(絵馬):境内の絵馬は確かに風変わりでした。
これは蛸に乗った地蔵様が何でしょうか・・蛾鬼か邪鬼に説教して改心している場面でしょうか?

寺田紡績(TERABO):かつては寺田紡績工廠と呼ばれていました。現在の建物は大正初期に建てられたそうです、阪神高速湾岸線を走るとその全景が良く見えます。 貝塚へ入る:貝塚は中世一向宗による宗教都市として栄えました、海を防塁線とした広範囲にわたる市街地を堀で巡らせた都市であったようです。
貝塚寺内町は、貝塚御坊・願泉寺を中心に中世末頃に形成された自治集落です。周辺一帯は、廻船業・鋳物業・和泉櫛などで栄えた江戸時代の町並みがよく残っています。 同寺は代々卜半家が住職を勤めていたことから、通称「ぼっかんさん」と呼ばれています。本堂、太鼓堂、表門などは国の重要文化財に指定されています。
海塚3丁目辺り:こちらにも古いポストがありました、この手のポストを調べて見ると 改良版丸型庇付郵便差出箱(1934年採用) との事です、現在は見かける事が少なくなってきていますね。 岩橋善兵衛(いわはし ぜんべえ、宝暦6年(1756年) - 文化8年(1811年))は江戸時代の望遠鏡製作者である。自らレンズを磨いて製作した望遠鏡は当時の日本の天文学者高橋至時や間重富に用いられたほか、大名たちにも用いられた。ほかに、太陽、月、星の運行を観測し、干満を計算する「平天儀」を製作し、『平天儀圖解』を著した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
粉河街道分岐:ここから粉河街道が分岐しています、粉河街道は西国3番粉河寺や犬鳴山への街道として利用されていました、いまでは徒歩で歩くには車の通行が危険な道になっています。 熊野街道へ:写真前方の分岐から左に取ると、2k程して熊野街道に合流して雄ノ山峠を経て紀州へ入る。 熊野街道へ
孝子越街道分岐: 分岐部には石造の立派な道標がありました。大きな物なのでこの街道分岐部が重要でかなりの人通りであったのでしょう。 徳本碑:分岐に建つ道標を何気に眺めていましたら、見覚えの有る丸みの有る 間無阿弥陀仏 の書体・・徳本の花押がありましたので道標を兼ねた徳本碑でした。
左 紀州わか山 右大川あわしま 
裏面には 大坂万人講  ○○判別不可 と刻まれていました。大きくて立派な物ですのでこの分岐が重要で在った事が伺えます。
前の大和橋〜岸和田 次の孝子越街道@ 泉佐野〜鳥取ノ荘へ


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