勝間街道
勝間(こつま)街道は、難波道頓堀の西方から木津の大黒さんを経て住吉に至るものですが、願泉寺から南へ下る筋が勝間街道と呼ばれていました、勝間(こつま)村は西成区玉出町の旧称で、ここを通過する勝間街道は、紀州街道の側道として往来が盛んあったそうです。 大阪市土木技術協会・大坂都市協会、発行の『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』に勝間街道のルートが記載されていましたのでトレースする事が出来ました、同書にはJR環状線今宮駅以南から紀州街道との合流部までのルートが載っています。 勝間街道の基点部あたる木津村には、1746年(延享三年二月)当時には3183名の人口があったそうで、浪速区史に付属の天保14年頃の浪速区付近図を見ると、難波新川沿いの道や今宮村を経由して紀州街道へ繋がる道、木津の村中を巡る道などが多数見受けられる事から、木津村南部の勝間街道口辺りから難波村へのルートは順次都合の良い道を利用していただろうと想像できます。 江戸期には大坂南郊は都市で消費される綿(木綿)、食品、野菜 等の供給地であったので、大坂の靱町からはこれらの作付けに欠かせぬ金肥(干鰯・油粕・屎尿)が下り、南郊からは木綿をはじめ葱・干瓢・南瓜・燈油・藍・新田でとれた米等がこの街道を往来していた事でしょう。 街道散歩をすると近世の産業道路であったようで、熊野街道や紀州街道のような風情は少ない様子です。 国道26号線が開通するまでは主要道路であったので、戦前には勘助町(現在、浪速区敷津西二丁目辺り)から天下茶屋茶への市バス路線が引かれていました。 浪速区辺りは戦災で殆ど焼けてしまい街道の雰囲気を感じるものは殆ど存在していませんでした、しかし南下して西成区内にはいると戦災を逃れた家屋も存在して、昭和期の古い木造文化住宅等が懐かしさを誘います、しかしながらそれらの住宅は急速に建替えられ近いうちには街道があった事さえ住民の記憶から消え去っていくのでしょうか? 07/2/4 ※この項は浪速区史より抜粋参照しました。 |
道頓堀辺り 承応2年(1653)道頓堀南岸に五棟の芝居小屋が公認され歌舞伎・見世物小屋等が建ち、随分と賑わを見せ初めていたそうです。元禄16年(1703)には大坂に35万1808人の人口と17279戸の戸数があったそうで、この大人口を支える為に近郊では都市に向けての生産が活発になっていたようです。
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大黒橋 この橋は木津の大黒神社への参道に当たっていた事から、元禄年間には「大黒橋」とよばれ、それ以降はこの名前が定着したようです。 江戸時代の大黒橋は木橋であったが、昭和5年に鉄筋コンクリートアーチ橋として、翌年には道頓堀川の浄化用の可動堰が設けられた。 かつてはこの辺りから難波新川(極貧堀)がつながっていました。
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難波新川・難波御蔵、跡 享保17年(1732年)飢饉に際して設けられ、幕府直轄の米蔵が置かれたところでした。東西126m南北324mの敷地に米蔵八棟を有していました。(1733年)道頓堀の湊町付近から難波御蔵への水運をよくするため堀川を掘ったのが難波新川です。 難波新川は昭和時代に埋め立てられその上に高速道路が走っています。
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鉄眼寺( 瑞龍寺 ) 唐風のお寺さんで現在の建物は戦後の物ですが、昔の錦絵等にも描かれ、浪速の名所となっていました。
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木津の大黒さん 木津の大黒さんとして敬愛されている神社、江戸期から人気がありここに到る道筋に架かる橋が大黒橋と命名された。
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今宮駅から南開へ 今宮駅東南側から南を望む、この駅周辺から市内へかけては激しく空爆され浪速区の場合その区の面積の内93%が消失したようで、区画整理され道幅も広くなっている。 木津川から塩草辺りの工場地帯は激しく空爆され、被害甚大であったそうです。 |
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長橋から鶴見橋へ 長橋小学校を過ぎると道は狭くなる、かつてこの道をバスが走っていたなんて想像できません。車が殆ど無かった時代なので、バス専用路みたいなモノだったんでしょうね。
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鶴見橋商店街 庶民の町西成を代表する商店街です、近年は閉まっているお店が多いとの事ですが、訪問日にはけっこう人が沢山闊歩していました、議員さんの街頭演説にも沢山の人だかりが出来ていて、30年くらい前の時間が流れている様な空間でした。
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潮路辺り 古い木造文化住宅や路地等が残っている庶民の町、急速に立替が進んでいるようで、不動産屋さんの看板が目立ちました。
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南海汐見橋線高架 南海電車汐見橋線のガード下には明日のジョーとかマンモス西とか出てきそうな雰囲気です。
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岸里辺り 岸里駅を過ぎた辺りで国道26号線を斜めに通過します。 この辺りから南側の古い道は大体において26号線に対して、北北西から南南東へかけて斜めに通過する道が多いようです。
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玉出中町辺り1 国立公文書館のデジタルアーカイブの戦災地図を閲覧したらこの周辺は国道26号線から西側が焼かれていますが、この辺りは戦災から免れているようです、大変に古いタイプの棟割家屋がありました。 窓枠が木製で家屋の角に地蔵さんが祀られていました。 |
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玉出中町辺り2 先の住宅の南側の住宅、いい雰囲気です、勝間街道随一の街道風情が残ります。 |
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生根神社 玉出の生根神社は、住吉大社の摂社・生根神社から祭神・少彦名命(すくなひこのみこと)の分霊を勧請し、勝間村の産土神として祀ったとの事です。 勝間は中世の記録に登場する古い町です、かつては環濠に囲まれていたそうで、昭和初期まで残っていたそうです。西成区のホームページ
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東粉浜辺り 粉浜は住吉大社に接する大変古くから文献に登場する町です。 上町台地の崖下に辺り古代には渚であったのでしょう、 粉浜の呼び名の原型は、この辺りが太古、住吉大社の式年遷宮の時の木材を置く浜だったことに由来するとの事です。 |
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紀州街道との合流部 やがて勝間街道は当時のメインストリートである紀州街道(住吉街道)へ合流し終点を迎える。 勝間街道はかつての繁栄を忘れ去ったかのように静かに佇んでいるだけでした。 それはまるで 老兵は静かに去りたいんだよ とでも言いたげですこし寂しげな道でした。
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勝間街道は街道らしい風情が殆ど無い道でした、おそらく江戸期 大坂の人口増加に対処する為に発生したバイパス(産業道路)的な色合いが濃い街道だったのでは無いか?と感じました、十三間堀川などもそうしたバイパス的要素の強い河川(川の脇には西住吉街道が沿っていたようです)で、歴史に殆ど登場しない街道ですが、人々の生活には無くてはならない道であったのでしょう。紀州街道や熊野街道のように花道には登場しませんが、かつて人々の生活そのものであったし、今でも地元の人達の生活の一部のような素敵で魅力的な道です。 産業的色合いの濃い事柄は殆ど記録らしい記録が残っていない事が多いと聞きましたので、戦争中最も消失率の高かった浪速区を基点とするこの街道ルートを比定された大阪市土木技術協会・大坂都市協会、の皆様には随分とご苦労された事と低頭の思いと感謝の気持ちで一杯です。 老兵は静かに・・・とのコメントを最後に書きましたが、勝間街道沿いは30〜40年くらい前の時間が濃厚に残る空間でした、夏休みに田舎のおばちゃんちに遊びに行く様な感覚、とても大切で・すごく懐かしく・ゆったりと流れる時間・けれどももう二度と帰って来ない時代、の残り香を感じることが出来た道でした、ここを歩いていると現在の自分の生活が、そんなに急いで効率よく活動して、あんた何がしたいんや?そんなん楽しいんかぁー と云われているようです。 |